イナフ ー失われた物語ー 【小説】



病院での治療も

警察の身元捜索も

全くといっていいほど進展せず

気が狂うような心の煩悶が

日々を増して

正常な意識を蝕んでいく

ナースでさえ

慰めの言葉を失うころ

身体のあちこちにあった

骨折だけは癒えてきて

特に足首の骨折がかなり良くなり

歩行のリハビリのみが

順調な進捗を見せ

私は車椅子から

解放された





過去の記憶が一切ない…

残酷なのは

過去を失った喪失感だけは

忘れることが出来ないことだ

その喪失感がなければ

私はこんなには

苦しまなかったのかも知れない

眠りで意識がない時だけ

私は安らぐことが出来た

それ以外は延々と続く

目覚めることのない悪夢の中で

絶望と悪寒に支配される

病院で目覚めてすぐに

私はだんだんと眠れなくなった

唯一の逃げ場すら失われそうになる

担当医に睡眠薬をもらう

それはだんだんと強い薬になり

安定剤と精神薬がひとつづつ増えた





…人は空虚を

どのようにして埋めるのか?







その答えは

深夜の病室で

静かに始まった

まるで磁石に砂鉄がやすやすと

引き寄せられるように…






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