イナフ ー失われた物語ー 【小説】
彼は窓の外を見つめていた
彼はつぶやくように言った
「…私には弟がいたんだ…10年前
海で溺れて死んでしまったが…」
彼は思いもよらないことを口にした
「海で死なれるのは…もういやだ」
その時私は理解した
あの日の屋上の彼の姿を
大事なものを喪った空虚を
私はかいま見たのだ
今日のこの部屋のように
こわいほどの夕焼けのなかで
「でも…海からは君を救ったのに…
医者としての僕は…君を」
「…いえ…」
私は彼の懺悔をさえぎった
「助けてもらいました」
彼は私を不思議そうに見つめた
「いいや…私は医者としてなにもで
きなかった…それなのに君は…」
「先生…ただ生きていることだけが
救いではないんです」
「なぜ…?…君は一体なにを得たん
だ?」
私は答えた
「…多分…自分自身を」
「…自分自身?」
「記憶でも地位やプライドや欲望で
もない…ただの自分です…得たんじ
ゃないんです…元々なんにもないん
です」
それがこの病院での短い暮らしで
得た結論だった
きっと記憶が喪われない
以前の生活の中では辿り着くことは
できなかっただろう
きっとやがて来る死も
受け入れることもなく…
「…でも…あの時は必要でした…
苦しみ抜くには時間も支えも要りま
す…最近になって…気づきました…
あなたから私は時間と支えをもらっ
たんです」
「私が…君に?」
「ええ…あそこで死んでいたら…
私は…後悔したでしょう…多分死ん
でも海の中で温かさを求めて寒さに
震えながら幽霊にでもなってさまよ
っていたでしょう…絶望の中では多
分…死んでも死にきれないと…今は
わかるんです」
そして私はもう一度彼に言った
「ありがとう…助けてくれて」