AEVE ENDING
「それでは、挨拶を済ませたばかりで申し訳ないが、」
青ざめた妻の肩に腕を回し、紳士はさっと身を翻す。しかしまるでそれを赦すまいと言うように倫子が声を掛けた。
「お急ぎですか?ゆっくりなさっていけばいいのに」
人懐こく微笑む倫子。
しかし引き留められたふたりの苛立ちが、空気を伝わって肌を刺激した。
(……そんな眼を向ける資格が、あんた達にあるのだろうか)
胸の奥から、醜悪な記憶から、音を立てて沸き上がる真っ暗な感情が。
雲雀が居なければ、きっと殺している。
滅茶苦茶に泣き叫んでも、責めて責めて責めて、痛めつけてやるのに。
(―――忘れないで)
(いつか、滅茶苦茶になぶって殺してやるから)
隣りに立つパートナーに意識が流れないよう、細心の注意を払っての、脅迫、を。
目を見開いた麗しい男女に満足する。
仮初めの充足感。
こんなもので満たされるわけもないのに。
───ならば、どうすれば満足する。
消え失せた筈の憎しみは、本人達を前に静かに息を吹き返し、どす黒い焔が倫子の心臓を灼くのだ。
あぁ、
不快、だ、酷く。
去ってゆくふたつの背中を無感情に眺めながらも、皮膚に罅が走る感覚は無視できそうになかった。
触れた手が内側から腐れてゆく。
記憶を辿って震えが止まらない。
私が私という全身を以て、全てを拒絶している。
(それは)
忘れるな、と言いたいのだろうか。
隣に立つ修羅の僅かな人間臭さに感化され、与えられた痛みを忘れるなと、「私」が言っているのか。
「…知り合いなの?」
その時だった。
どこか不機嫌な声に、はっと息を飲む。
先の二人に対する感情が深すぎて、その存在を忘れていた。
ゆっくりと顔を上げれば、全てを見透かすような黒とぶつかる。
(…まさか、聞かれてたかな)
あの、こどもじみた脅迫を。
もしここで下手に誤魔化せば、やはり無血ではいられないだろう。
「…他人には興味ないんでしょ?」
所詮、うたかたの防戦。
無駄な足掻き。
この男を前に、つまらない誤魔化しを口にしてただで済むわけもないのに。