翻訳:魯迅『小さな出来事』
車夫は老婆の話を最後まで聞いてから、一瞬もためらわずに老婆の手を取ると、一歩また一歩と前に歩きだした。私は何だかいぶかしく思い、慌てて前方を見やると、交番があった。強風の後であり、周囲に人は見当たらなかった。車夫は老女を手で支えながら、交番の入口に向かっていった。
私はこの時、思いがけず何か異様な感覚を経験した。車夫の埃にまみれた後ろ姿が突然大きく見えはじめて、一歩毎に大きくなり、ついには見上げるほどになったのである。私は徐々に車夫に威圧されてしまい、外套の下に隠しておいた「小ささ」までが搾り出されているような気がした。
私は気力を失って座っていた。動くことも、考えることもできなかった。交番から巡査が一人出てくるのが見えた。私はようやく車を降りた。
巡査は私のそばに来て言った。
「乗客の方ですね。車から離れてください」
私は思わず外套の隠しから銅貨を取り出し、巡査に手渡して言った。
「車夫にやってくれませんか」
風はもう吹いていない。往来は依然として静かである。
私は歩きながら考えた。自己を省みることがわずかに恐かった。他の事はさしあたって構わずともよい。だが、あの一掴みの銅貨は一体何なのであろうか? ねぎらいのつもりであろうか? あの車夫に評価を下すことが、今の私に許されるのであろうか? 私はおのれに答えることができなかった。
この出来事は今でも折に触れて思い出される。私はその都度、痛みを堪えて、自省に努めねばならない。
この数年間の政治と軍事などは、私にとって、かつて子供の時分に習った「子曰く、詩に云う」と同様で、半分も記憶していない。ただ、この小さな出来事だけは、いつまでも私の眼前に浮かび、時にはより鮮明になって、私を恥じ入らせ、反省を促し、勇気と希望とを高めてくれるのである。
(一九二〇年七月)
私はこの時、思いがけず何か異様な感覚を経験した。車夫の埃にまみれた後ろ姿が突然大きく見えはじめて、一歩毎に大きくなり、ついには見上げるほどになったのである。私は徐々に車夫に威圧されてしまい、外套の下に隠しておいた「小ささ」までが搾り出されているような気がした。
私は気力を失って座っていた。動くことも、考えることもできなかった。交番から巡査が一人出てくるのが見えた。私はようやく車を降りた。
巡査は私のそばに来て言った。
「乗客の方ですね。車から離れてください」
私は思わず外套の隠しから銅貨を取り出し、巡査に手渡して言った。
「車夫にやってくれませんか」
風はもう吹いていない。往来は依然として静かである。
私は歩きながら考えた。自己を省みることがわずかに恐かった。他の事はさしあたって構わずともよい。だが、あの一掴みの銅貨は一体何なのであろうか? ねぎらいのつもりであろうか? あの車夫に評価を下すことが、今の私に許されるのであろうか? 私はおのれに答えることができなかった。
この出来事は今でも折に触れて思い出される。私はその都度、痛みを堪えて、自省に努めねばならない。
この数年間の政治と軍事などは、私にとって、かつて子供の時分に習った「子曰く、詩に云う」と同様で、半分も記憶していない。ただ、この小さな出来事だけは、いつまでも私の眼前に浮かび、時にはより鮮明になって、私を恥じ入らせ、反省を促し、勇気と希望とを高めてくれるのである。
(一九二〇年七月)