腐ったこの世界で


曖昧な表情を浮かべたままいっこうに近寄ろうとしないあたしを不思議に思ったのか、伯爵の方から近づいてきた。恭しくあたしの手を取ると、そのまま窓辺のソファーへと案内する。
身体が沈みそうなソファーにあたしを座らせ、伯爵も隣に座る。拳ひとつ分も距離を開けないほど近くに。

「……近くない?」
「気にすることはないよ。足の調子はどうだい?」

いまいち納得できないけど私は大人しく伯爵の言葉にいいよ、と返事をする。
実際、足の調子はかつてないほど良好だった。長い間引きずっていたからまっすぐ歩く、ということになかなか慣れなかったけど最近は転ばずに歩けるようになった。

「良かった。ダンスもどんどん上手になってるよ」
「……そうね」

色々な舞踏会に引っ張り回されるようになったからね。嫌でもステップは身についちゃった。
ダンスの相手はもちろん伯爵だ。別の人に誘われて踊ることもあるが、その相手は伯爵が決める。おまけにすぐに伯爵が迎えに来るのだ。
何がしたいのかさっぱり分からない。だけどあたしは伯爵に付き従った。伯爵が望むならその通りにしよう、と。
ふいに甘い香りが室内に漂った。それと同時にクレアがワゴンを押しながら登場する。

「お茶をお持ちしました」

手早く準備されるお茶。お茶菓子に出された不格好なマフィンに、あたしは目を見開いた。
思わずクレアを見れば澄まし顔。間違いない。あれはあたしが作ったマフィンだ!

「どうぞ。このマフィンはアリア様が作ったんですよ」

よりによってクレアはさっさとあたしが作ったことを暴露する。伯爵はその言葉にわずかに目を見張った。

「アリアが?」
「はい。レオンさまがお戻りになる前に」

伯爵の視線があたしに降り注ぐ。うぅ。後でこっそり回収しようと思ってたのに。
ソファーで小さくなるあたしを、伯爵はまじまじと見つめた。

「アリア、これ本当にアリアが作ったの?」
「えっと、でもほとんどロムルが作ったようなものなんです……」

ロムル、という言葉を聞いた伯爵の顔がわずかに歪む。だけどすぐに笑顔になってマフィンを1つ取った。


< 108 / 117 >

この作品をシェア

pagetop