腐ったこの世界で


伯爵がこちらを見ていないことを確認してあたしはフロアーの中を歩き出す。歩きにくいと思っていたドレス捌きも我ながら上手くなった。
伯爵と離れたからか、あたしを追いかける視線が減った。やっぱり伯爵と一緒だったからみんな見ていたのか。
緩やかな音楽に合わせてダンスを踊る人たち。あたしはその輪に入る勇気は持てなかったので、飲み物を受け取って離れたところでそれを眺めた。

「――お一人ですか?」

すぐ隣からそんな言葉が聞こえてきた。びっくりしてそちらを見れば、優しそうな笑顔を浮かべた男の人と目が合った。

「えっと……」
「驚かせてしまいましたか? あまりにもお美しいので声をかけずにはいられませんでした」

滑るように出てくる美辞麗句。そんなことを言われたことがないあたしは、ただ戸惑った。
明らかに狼狽えるあたしを見て、その人は頬を緩ませる。それからあたしの手を優しく取った。

「よろしければダンスなどいかがでしょう?」
「でも…」

どうすればいいのか分からず、躊躇うあたしの手からグラスを抜き取られる。巧みに手を取られるものだから、あたしは抵抗らしい抵抗もできなかった。

「あの…!」
「ダンスは苦手ですか? スローステップだから大丈夫ですよ」

そうじゃなくて! 話が噛み合わないことに苛立つ。
断っていいのかな。でも断り方によっては角が立つし、うまい言葉も思い付かない。
差し出した腕を引っ込めさせることほど、紳士にとって屈辱的なことはないとマナー講師に習った。そう考えたら断るのも怖くて。
一人で慌てるあたしの背後に、誰かが立つ気配を感じた。

「失礼。彼女のパートナーは僕ですので」



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