腐ったこの世界で


この声に、あたしがどれだけ安心しただろう。振り返れば優雅に微笑む伯爵の姿があった。
笑っているのに有無を言わさない迫力を感じる。男の人は急な伯爵の登場に戸惑ったようだった。

「ルーシアス卿?」
「彼女のエスコート役は僕の役目ですので。手を離していただいても?」

頼んでいるのは伯爵なのに、上の立場に居るように感じるのはなぜなのだろうか。それは男の人も感じたらしい。おずおずとあたしから手を離した。
ずっと掴んでいた手が離れたことにホッとしたあたしは、そっと伯爵に歩み寄る。伯爵は笑ってあたしの手を優しく取った。
伯爵が微かに眉をしかめるのを見て、背後を振り返れば男の人はまだあたしたちのそばに居た。手を取り合うあたしたちの姿が親密に見えたのか、顔には隠しきれない好奇心が浮かんでいる。

「ルーシアス卿はこちらのレディと懇意なのですか?」
「えぇ。当家でお預かりしているレディなんですよ」
「ルーシアス伯爵家で……」

男の人は呟いたあと、何かを思い出したような顔になった。それから視線があたしへと戻る。
そこには先ほどの好奇心は見えなかった。代わりに品定めするような視線と、見え隠れする嘲りの雰囲気。

「っ、」

鋭い視線があたしを突き刺す。とっさに伯爵の影に隠れるように身をずらせば、伯爵があたしたちの間に割り込んだ。

「では失礼します。また機会がありましたら、ぜひお話を」
「あぁ…こちらこそ」

伯爵の会釈に男の人も答えるとその場を離れた。あたしも伯爵にエスコートされるまま、歩き出す。
彼の視線があたしに突き刺さる。そっと振り返れば目が合った。そこに浮かんでいたのは明らかな侮蔑混じりの嘲笑。


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