{霧の中の恋人}
久木さんは、空き缶を持ったまま、冷蔵庫の前で立ちつくしていた。
ジッと冷蔵庫を見つめたまま身動き一つしない。
何か考え事をしている風にも見えるけど、何も考えていないようにも見えた。
「フー…」
暫くして、もう一度大きな溜め息をついて、手を額にあて項垂れる。
艶のある黒い髪がパサリ揺れた。
本当に疲れているみたい。
こんな久木さんを見るのは初めてだ。
久木さんはおでこに当てた手で、そのまま髪をかき上げた。
「…このくそ暑いのにシチューか?気がしれない」
久木さんは、シチューの鍋を睨むようにして言った。
暑い?
真夏ならこの久木さんの台詞も納得できるけど、今日は天気予報で11月下旬の寒さであると言っていた。
現に、薄いコートを着ている人を何人も見かけた。
不思議に思い、久木さんを見上げると、髪をかき上げたときに乱れた前髪から覗く額にはうっすらと汗が滲んで光っている。
火を使っているとはいえ、部屋の中もそんなに暑くないはずだ。