{霧の中の恋人}
「す、すすみません!ごめんなさい!」
「君は、花村 瑞希か?」
「へ?」
「君は、花村 瑞希かと聞いている」
「…ええ、そうですけど…。何のご用ですか?」
お線香をあげに来た…
って訳ではなさそう。
私に用事があるみたいだけど、こんな人知らない。
全身黒っぽい井出達で、髪も真っ黒で、夜の闇に溶け込んでいるかのよう。
まるでカラスみたいだ。
「あの、もしかしてお線香をあげにいらした…」
「君には、この家を出てもらう」
私の言葉を遮るように、男が早口で言った。
唐突の台詞に、反応できなかった。
ただ呆然と、その目の前の男を見つめるしか出来なかった。
「聞こえているのか。君にはこの家を出てもらう」
男がもう一度繰り返す。
何の感情もこもっていない、まるで機械が発したような冷めた口調。
何も答えることができず、呆然と突っ立ている私に向かって、その男は言葉を繋げる。
「そして、私と一緒に来てもらう。なるべく早いほうがいい。出来れば今週中にでも荷物をまとめ……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
早口で、淡々と告げる言葉を止めた。
「何か質問でも?」
質問って……
そんなの色々あるに決まっている。
そう。
例えば、あなたは誰ですか。
どこの何者で、名前はなんと言うのか。
私が家を出なければならないとは、どういう事なのか。
「質問がないなら、これで失礼させてもらう。
一週間後、迎えにくる。それまでに引越しの準備を……」
いつまでも話し出さない私に 業を煮やしたのか、男が話しの続きをはじめた。
「だから、ちょっと待ってください!突然そんなことを言われても意味が分からないんですけど!」
「君は何を聞いていたんだ。同じ話をもう一度させるつもりか。理解能力に欠けているんじゃないのか」
男が呆れたように長いため息をついた。