{霧の中の恋人}
思わずビクッと身体を反応させた私に構わず、久木さんはゆっくりと親指で涙の跡を拭っていく。
「あ、あの曲は何ていう曲ですか?
初めて聞く曲だったんですけど、すごく感動して…」
「………」
「ひ、久木さんってすごくヴァイオリンが上手いんですね。
もしかして仕事はヴァイオリニストですか?」
「………」
質問に答える気がないのだろうか。
久木さんは、ただひたすら無言のまま、私の涙を優しく拭いている。
「あ、あの久木さん?」
涙を拭き終わった久木さんはヴァイオリンを持って、立ちあがった。
「…昔…ある人に教えてもらって、たまに趣味で弾いてるだけだ…」
ある人って?
そう聞こうと思ったけど、彼の顔を見たら言葉に出来なかった。
どこか寂しそうな、遠い目をしていたから…。
もしかしたら、その”ある人”は、もう会えない人なのかもしれない。
何となく、そう思った。
「…もう寝たほうがいい…」
久木さんはそう一言残し、部屋に戻っていった。