{霧の中の恋人}
「…泣くわけにはいかないの」
「どうしてだ?」
「…だって、私はお母さんみたいになりたいの。
お母さんはどんな時でも笑っていたの。
女手ひとつで私を育ててくれて、夜遅くまで仕事したり、辛いことだって沢山あったはずなのに…」
お母さんはどんなに忙しいときだって、疲れた表情ひとつ見せずに、愚痴も泣き言も言わなかった。
いつも幸せそうに笑っていた。
「君のお母さんは、それが辛いことだと思っていなかったから、泣かなかったんじゃないのか?
君を育てるための苦労が、苦じゃなかったんだろう」
「…えっ?」
「もし、これが逆の立場だったら、君の母親は笑っていると思うのか?」
「…逆の立場?」
「娘の君が死んで、笑顔でいるような母親なのか?」
「……っ」
久木さんの言葉を聞いた途端、自然と涙が溢れてきた。
自分の中にあった枷が外れて、何かが解き離れたような感覚。
泣いてもいい。
心からそう思えた。
抑えていた涙が一度こぼれ出すと、止められなくなった。
大好きだったお母さんがいなくなってしまった喪失感、悲しみ。
これからの不安。
今まで我慢してきた、様々な感情がすべて涙となって出てくる。
「うあぁぁぁ、なんでお母さん死んじゃったの!?
1人にしないで…。こわいよ…。
これから1人でどうやって生きていけばいいの!?」
私はお母さんの仏壇に突っ伏して、子供のように泣いた。
人前で泣くのなんていつ以来だろう。
私は、このとき初めて母の死に対する涙を流した─…。
しかも、出会ってまもない、初対面の男の前で─…。
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