{霧の中の恋人}
久木さんは、私の言葉に目を見開き、それから可笑しそうに笑った。
「君は楽天すぎる。
その単純な性格を人類に分け与えれば、この世から争い事なんてなくなるんだろうな」
「ヒドイ!単純じゃなくてシンプルって言ってよ!
シンプル・イズ・ザ・ベストってね」
「シンプルすぎて計画性がないんだろ?
だから、こんなところに一晩泊まるハメになった。
これが果たしてベストと言えるのか疑問だな」
久木さんはいつもの皮肉そうな笑みを浮かべた。
…ふーん。
いつもの調子が戻ってきたみたいじゃない?
いつもの久木さんに戻って嬉しいような、悔しいような、色んな感情が混ざって複雑な気持ちになった。
ミキサーでごちゃ混ぜにされたような様々な感情を、お酒にこめて、それを一気に飲み干した。
「もうっ!今日はとことん飲んでやるんだから!」
私は、宣言した通り、とことん飲んだ。
冷蔵庫の中のお酒がなくなる頃には、意識がとんでいた。
意識がフェードアウトする直前、朦朧とした意識の中で、フワリと宙に浮いた感覚を感じた。
壊れ物を扱うように、優しく温かいものに包まれる。
そして、軟らかい布団の上に、そっと下された。
「また、君に救われたな…」
上から降ってくる柔らかい声色と、頭を撫でる優しい手。
わたし、この手に覚えがある…。
昔も、この手に頭を撫でられたような気がする…。
いつの事だっけ?
最近のことじゃない。
ずっと昔──
遠い過去で、この手を感じた。
何度も何度も、くり返し頭を撫でる、懐かしくて優しい手に導かれるように、わたしは意識を手放した───…。