{霧の中の恋人}
「…ただいまー…」
そっと玄関のドアを開けて、聞こえるか聞こえないかの小さな声で言う。
なるべく物音を立てないように、細心の注意を払う。
「瑞希ちゃん、なんでそんな恐る恐る家に入るん?」
そんな私の努力を無にするように、後ろにいる『不知火さん』が大きな声で言いながら、手に持ったビニール袋をガサガサと揺らす。
「不知火さん!静かにしてください。
久木さんなら靴があるので、自室にいると思います」
私の後ろに立っていたのは、引っ越しの時に手伝ってくれた久木さんのお友達の不知火さんだった。
不知火さんが一緒なら、久木さんの気も反れるだろうし、そっと部屋に入っちゃえば久木さんと顔を合わせずに済むかと思って、家に帰ることにした。
久木さんに気付かれないように、自分の部屋に入ろう…。
「不知火さん…あそこが久木さんの部屋ですので…
私はこれで失礼します…」
抜き足、差し脚。
自分の家に帰るのに、これじゃあ泥棒のようだ。
私の部屋は、久木さんの部屋の前を通らなければならない。
そーっと、そーっと…。
なるべく足音を立てないように…。
「ねぇねぇ、瑞希ちゃん。
一体どうしたの?」
後ろから不知火さんが話しかけてきた。
「事情があって、久木さんと顔を合わせたくないんです。
だから今、私に話しかけないでください」
小声でそれに答える。
「ねぇねぇ、瑞希ちゃん?」
「だから話しかけないでください!」
「でもさー」
「何ですか!?」
もうっ!
今それどころじゃないのに!
これじゃあ、久木さんに気付かれちゃう!
「シランなら此処にいるけど?」
「そうですか、でも今それどころじゃ……えっ!!?」
おそるおそる後ろを振り返ると、怪訝そうな顔をした久木さんが不知火さんの隣に立っていた。
「君は何をしてるんだ?
不審極まりないな」
…おっしゃる通りで……。