第六感ヘルツ
16,笑う犬
「よう」
突然話し掛けられて呆気に取られた。
ある意味、一本取られたと言っても過言ではないかもしれない。
固まったわたしに、彼はもう一度、律儀に声を掛けた。
「ようお嬢ちゃん、俺がそんなに珍しいかい」
やっぱり答えることは出来ず、瞬きも忘れ、足は地に縫いとめられたままだ。
どんよりと暗雲の覆う重たい空の下、春先だというのに肌を刺す風は冷たい。
おかしな気候のせいか、はたまた、迷い込んだ路地裏のせいか。
何故かと考えることは無駄なことかもしれないが、それでもわたしは考えていた。
犬が喋っている。
「何だい、ブルドックが喋るのがそんなに珍しいか」
「ブルドック……」
「おう、しかもフレンチだ」
「フレンチ……」
しっかり付くものは付けているので、彼で間違いはないようだ。
彼はどうやら、フレンチブルドックらしい。
いや、重要なのは性別や犬種ではない。
気候や場所でもない。
犬が喋っているという、目の前の事実だ。
「あ、あの、何で……」
「あ、そうだ」
最重要事項を明確にしようとしたなら、思い出したように口を開いた彼に遮られた。
「こっから先は行かない方がいいぜ」
──何故?
そう問う前に、彼はにやりと笑って言った。
「よくないことが起こる。あの先の角のマキタさんちの奥さん、よくねえ男と浮気してるからな」
「あの、そうじゃなくて、」
「行くなよ」
やっぱり笑ったとみて間違いなさそうな彼は、こじんまりとした尻尾を一度振ってから、踵を返して去っていった。
「巻き込まれたくなけりゃな」
最後にひとこと、そう残して。
呆気に取られたままのわたしの耳に、しばらくして、暗雲を切り裂くようなつんざく女の悲鳴が聞こえた。
全ては不明瞭なまま、翌日の新聞で、マキタさんちの奥さんが惨殺されたことだけを知った。
16,笑う犬【エンド】