花の都
辺りが夕日に染まる頃、千種は巨大な湖の側にいた。

マジャール湖。
湖底に沈む白い砂が光を反射し、透明感のある青に輝くこの湖は、観光の名所としても有名だ。
そのため宿泊施設や娯楽施設も充実している。
千種の今日の宿もこちらでとる予定だ。
残念ながら、資金面で不安があるため、安宿を探さなくてはならないのだが。

比較的暖かな季節ということもあり、宿場周辺は多くの旅人でにぎわっていた。
千種は人ごみを縫うように進むが、小柄なために思うように進めていない。それどころか、気がつくとややさびれた雰囲気のある一角に立っていた。
先ほどまでのにぎわいが嘘のように人影がない。動く物は風に揺られる草木以外に見当たらない。
(…不気味だ)
というよりも、明らかにおかしい。
千種は目的を持って行動していたのだ。このような場所に自然に流されはしない。
何故このような場所に来てしまったのか、何故ここにたどり着くまで、疑問一つ覚えなかったのか。
違和感ばかりが増していく。
けれど何かが起こるのをただ待つのは危険過ぎる。辺りを警戒しつつ、人々でにぎわう宿屋周辺に戻ることにした。



辺りを見回し、人気のない路地に背を向ける千種を見つめる影がある。
背は高いが細身で性別がはっきりしない。その影の視線は酷く冷たい、憎悪のこもったものである。
「あの子供」
千種の姿が見えなくなったとき、影が低く呟いた。その顔がゆっくりと笑みを形作る。
「あれが…の……。だとしたら…」
楽しげに笑ったあと、影はこつ然とその姿を消した。



その夜、千種は小さな安宿に泊まった。
初めての旅で疲れきっていた千種は、夢一つ見ずに眠った。
その寝顔はどこか悲しげですらあった。村からの追放は年若い千種の心にとって、大きな負担となっていた。

同じ夜に世界のどこかで、女神が祈り、影が笑った。
世界は静かに変化を待ち望み、小さく揺らぐ。
揺らぎはほんのかすかに、世界の住人たちの心に響き残る。
動物も、植物も、無機物でさえも。
新たな時代を夢見て眠る。









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