キミは聞こえる
「逃げたわけじゃない。その、ちょっと個人的な事情で急いでいただけ」
だから桐野くんを嫌ってなんかないし、もっともあんな数秒で誰かを嫌いになるなんてこと私にはできない。
そう、言うだけ言って、泉はまたマフラーに顔を沈めた。
今、桐野はどんな顔をしているだろう。
納得してくれただろうか。
もし納得してもらえず、嘘だとばれたら今度こそ逃げよう。泉はそう決めた。
二人の間に沈黙が落ちた。
泉は桐野の学生服についた第三ボタンを見つめながら声が降ってくるのを待った。
鈴の模様が施された銀のボタンはなかなかにしゃれている。女子のセーラー服にはこういった装飾品がないためすこし羨ましい。
けれど、この暗さの中では銀も負けて、美しさが半減してしまっていた。陽の下で見るときらきら輝いてとても綺麗なのに。
そういえば。
(……明るい場所で桐野くんを正面から見たことってないな)
病院も、病院から出たときも薄暗かったかし、ちゃんと向き合って話したのもこれがはじめてだ。
暗くてもはっきりとわかる桐野の顔の良さ。鼻は高いし、アゴはすっとしている。陽の下で見上げたら、さぞかし男前だろう。
そんなどうでもいいことを意味もなく考えていると、ふいに桐野の喉が上がった。
来る、と思った。
泉はごくりとつばをのみこんだ。
「―――なーんだ。また俺の思い過ごしかぁ。取り越し苦労だったんだな」
桐野はお得意のお気楽顔で「なんだそうかぁ」と嬉し恥ずかしぽりぽりと頭をかいた。
(……よかった)
心の底からほっとした。