キミは聞こえる
「なら、代谷さんが気にすることはないんじゃないかな。今度はそっちがテストでしょ? テスト終わったら今度は大会だし。いろいろ焦って来てるだけかもしれない」
「だといいけど」

 そんな簡単なこと―――と言ったら失礼かもしれないけれど、そういったことと彼のあの表情は何処か違うような気がしてならない。
 別のなにかが関係しているような、そんな気がする。

 桐野のことを知り尽くしているわけではないけれど、彼なら多分、テストだから、大会が近いからという理由であそこまで自分を見失ったような顔をしない。
 そう思う。


「送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」
「友香姉たち帰るまで用心したほうがいいよ」

 それじゃあ、と肩越しに手を上げると、康士は帰って行った。

 ポケットから鍵を取り出して灯りのない代谷家の鍵穴に射し込む。
 下を向いていると髪が脇に流れて首筋をすうと夜風がかすめた。かすかに身震いする。

 戸を引くと、誰もいない屋内から冷気が流れてきた。壁伝いに電気を点けるためのスイッチを手探りで探す。

 と、そのとき。

 閉めたばかりの玄関の戸がふいに開かれた。
 代谷のみんなが帰ってきたのだろうかと、泉は振り返った―――

「こういうとき、ケータイって、便利だよ、な」

 ―――振り返るより早く、手元に明かりが点った。
 同時に、声がした。

 あたたかい吐息が泉の耳をくすぐる。
 やや荒い息づかいで途切れ途切れに時代の利便性を口にしたのは、

 
 桐野だった。


「どう、したの? 桐野君、家に―――」

 言葉が止まる。
 泉の意思なく、身体が動いた。否、動かされた。

 引かれた腕。あたたかな胸は速い鼓動を刻んでいる。背中に回された二本の腕(かいな)は太く、逞しい。
 そのまま強く抱かれる。

 どくどくと桐野の鼓動が泉の胸を介し伝わってくる。

 抱きしめられた。

 桐野に。


 桐野に、

 抱きしめられていた。

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