キミは聞こえる
 どこからともなく現れた男は忍び笑いとともに嫌みたらしくそう言った。知希だ。

 眠たげな顔で桐野の前に立つ男はおそらく寝癖であろう奇妙に盛り上がった前髪をいじりながら欠伸をかみ殺している。

「おまえ、なんでこんな時間まで学校いんの」
「それがさぁ、科学部の部長ってひどいやつなんだよ。可愛い後輩が寝てるっつーのに、起こしてくんねぇの。世界史の先公がちょうどよく通りかかってくれなかったら俺、あのまま科学室で朝日におはようだったわ」

 あは、と呑気に笑って知希はまた欠伸を―――今度は堪える気も隠す気もなく、大口を開けてふああとした。

「いいな、おまえはいつもお気楽で。悩みとか、ないだろ?」

 恨めしげに横目で尋ねると、知希は人差し指を桐野の前に突き出し声に合わせて左右に振った。

「ちっちっちぃ、桐野君、人間というものはすべからく悩みを抱えているものなのだよ。万年寝不足気味のこの僕だって、ちゃあんと悩み事はあるので~す」

 頭に来る。

 そのふざけた喋り口調がすでに悩みがないと言っているではないか。言っているように聞こえるとかでなく、絶対そうだ。この男は悩みとは無縁の生活を送っている。

 額を押さえて力なく首を振ると、なぜそんな顔をされるのかわからないという様子で知希は首を傾げた。

「桐野君はなにか悩みがあるのかい?」

 悩みまくりで困っている最中だ。おまえとは違う。

「禿げるよ」のぞき込みながら知希は言う。

「あいにくと俺の家系は白髪になるだけで禿げないんだ」

 知希は目をぱちくりと開けた。

「マジ? 羨ましいんだけど」

 外履きを下足箱に戻す。逆に、桐野の隣に並んだ知希は内履きを下足箱にしまい入れる。

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