キミは聞こえる

 愕然(がくぜん)とした。 

 役割や領域なんて、所詮、自分を慰めるためだけの詭弁(きべん)――。

 過ごしていた日々が嘘の平和だったなんて思いたくはないけれど、あのくらいの平穏な生活は干渉がない家庭ならどこだって築けるものじゃないのか。

 父のために家事をやっていると、そう思っていたのは私だけだったのか。

 朝は早く帰りが遅い、多忙な父親をすこしでも楽させようと亡くなった母親に代わって家事をこなした。

 自分は父親のために、動いている。

 そう、父親のために――。

 ……そう今までは思っていたけれど、本当は違っていたのかもしれない。

 すべては父のためだと、思い込みたかった。それ以外の理由など、考えたくもなかったのだ。

 東京の、わりといいマンションに住んでいた頃のことを思い出す。
 磨かれたフローリングの廊下にポツンと立っている自分。

 「ただいま」、

 しかし、決して返ってこない―――

 「おかえり」。

 虚しさも悲しさも引っくるめて慣れたものだと飲み込んでいた。

 今になってわかる。
 あのとき、私は我慢していた。
 なにを?

 苦しいと思うことを。

 逃げたかった。
 なにから? 

 自分はちゃんと"ここにいる"ということを見失ってしまいそうになる不安定な現実から。

 誰かのために、自分はいる。

 自分は頼られている。
 頼ってくれているのだから。

 そう思うことでなんとか繋ぎ止めてきた揺らぐ心、自分という存在。

 手を離せば簡単にほどけてしまいそうな細い糸をなんとか紡いで、自分を守ってきた。

 もっともらしい理由を作らなければ足元から視線を離せず、立つことすらままならなかった脆く弱い自分。

 しかし、泉の救いを求める声を聞いてくれる者は、どこにもいなかった。

 家にも、学校にも、どこにも。

 ……どこにも?

 自問して、自らに首を傾げる。

 本当に、そうだろうか。

 誰かに話そうと、一度でも思っただろうか。
 自分の話を聞いて欲しいと、心から真剣に願っただろうか――。
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