キミは聞こえる
 相手チームの応援席から爆発に近い歓声が巻き起こる。


(桐野くん―――……ッ)


 ……奪い奪われるボールなど、勝負など、このときばかりはどうでもよかった。

 胸の前で手を重ねたまま、泉は桐野から目を離すことが出来なかった。

 桐野は男が視界を去ると芝生に身体を打ち付けるように前転し、そのまま倒れ込んだ。

 すかさずもっとも近くにいたチームメイトが駆け寄ろうとするのを手で制し、よろめきながらも桐野は半身を起こした。

 握った拳を強く地面に打ち付ける。

 瞬間、とてつもない感情の波が泉を襲った。

 おもわずその場に座り込みそうになってとっさに佳乃の腕を掴む。

 どうしたの、という佳乃の慌てた声が右から左にすり抜けていく。

 全身が震え出す。
 初夏にしてはあまりに冷たい空気が泉ただ一人を覆っていく。

 乱れる呼吸を整えようとゆっくり息を吐く。


 ……これは、桐野の心の中だ、と思った。


 敵キーパーと距離を開けた桐野は、ゴール付近でまるで甘菓子に群がるアリの集団のように接近戦を繰り広げる選手たちの動向を憎悪のごとき闘志を燃やしながら静かに窺っていた。

 その顔はコート上に相応しい選手のそれであったけれど、彼の中を渦巻く感情は泥のように重く、先の見えない常闇のように真っ暗で、

 それはまるで翔吾を閉じこめる底なし沼を思わせた。息苦しささえ似ている。

 ときおりどんと打ち付ける目眩がするほどの圧迫感は憤怒。

 彼の怒りの矛先はどこなのか。

 いまボールを奪い取った男か、それとも橋の下で話した競争相手か、

 はたまた別の者―――それは己自身も当てはまるのか。

 わからない。

 わからないけれど、確かなことが一つだけある―――それは、


 桐野の感情に、泉の心が酔っていく。
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