キミは聞こえる
 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。

 背中にあったはずの手がふいに後頭部に回されたかと思うと、次に瞬きをするまでの二秒とない間に柔らかな感触が泉の言葉を阻んだ。


≪わかったから≫


 声が聞こえた直後、津波のごとく桐野の感情が泉の中に流れ込んだ。

 しかし押し寄せるのは荒々しいそれではなく、まるで真逆のあたたかな情、桜色の世界。

 視界が霞んでいく。

 全身から力が抜け、強張りがほどけていく。

 やがて桐野に体重のすべてを任せると、桐野は泉の身体をいっそう抱き寄せ、わずかな隙も作らんとばかりに唇を重ねた。

 思考が止まる。

 一緒に時間が止まった気がした。
 いっそ、止まってしまえばいいと思った。

 これまで何十人という人の心を読み取ってきた中で、これほどの幸福感に満ちたことはなかった。

 あたたかな雫が泉の頬をすべり落ちる。

 砂糖菓子のように、淡雪のように、自分がほろほろと溶けてなくなりそうだった。


 桐野が愛しい、と心から思った。


≪すき≫


 絞るような桐野の声。

≪ほんとに?≫
≪すきだ≫

 唇が離れると、目と目が合い、しかし桐野の視線はまたすぐに泉のそれへと移された。

 なんとなくそうかなと思いまぶたを伏せると、桐野はもういちど―――今度は短めのキスをして、それでもまだ物足りないのかもう一つキスを落とすと、ようやく顔を上げた。

「これ、夢じゃねーよな」
「頬、引っぱたいてあげようか」
「そこはフツー引っぱってあげようか、じゃねぇの?」
「あれ、そうだっけ」

 桐野は小さく吹き出した。

 が、すぐに笑みは消えた。彼の視線は泉の頬あたりを見ている。

「涙」
「え、あ、ああ……」

 手の甲でぬぐい取る。「あんまり、うれしくて」

「え?」
「誰かの心に触れて、こんな気分になったこと、いままでなかったから」

 言葉にして、また涙が出てきそうになるのを天を仰いでなんとか堪える。

 夕焼け空はいまの泉の心を映すように桃色に染まっていた。あまりに綺麗で、自然、笑みがこぼれる。

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