キミは聞こえる
 ふと、先ほど傍らを通り過ぎた黒のコート男の顔が脳裏をよぎった。
 軽く唇を引き結んで、泉は集中力を高める。

≪どこだ、何処にいる≫

 不意に掌に力が入り、ぐしゃっと紙袋が潰れる。

「どうした、しろ――」

 桐野の腕を掴み、迫るように近づいてきた"気配"に泉は瞬時に振り返った。

「!」

 ぬっと現れた黒い影。

 予想以上の近さにぎょっとして、一寸息が止まる。

 男もまさか振り向かれるとは思っていなかったのだろう、軽く目を見開いていた。

 クセのない黒髪は短めだが、手入れを怠っているのか長さがまちまちで、目に重なっているところもありお世辞にもお洒落とは言えず、無精髭が貧乏くささを強調する。

 切れ長の目は涼しげで男前だが、縁取るように生える睫毛が濃く、どこかいやらしい印象を泉は受けた。

 上から下へと動かされる視線に全身が粟を吹く。

 泉はすぐさま身構えると、ぎっと奥歯を噛みしめることで怖気に耐えた。

 ただならぬ気配に、桐野も身を固くする。

≪じっとして≫

 後ろで桐野が息を呑む。

≪な、なんなんだ、このおっさん。代谷の知り合いなのか?≫

 桐野を庇うように立ちはだかりながら、知らない、と心で言葉を返す。
 
≪さっき、矢吹君と歩いてるときにすれ違ったの。たしかに反対方向に行ったのに、どうしてか戻ってきたみたい≫ 

 危ないやつ、わかりやすく言えば、ヤバイ男が町に入り込んだようだ。
 胸の内で舌を打つ。

 失礼ながら、この町は変態出没率が高いらしい。

 都会も都会、大都会のそれも東京の都心育ちでも、ナンパにこそ会ったことはあれど、一目で気色悪ッ! と鳥肌立つ人物にめぐり逢ったことはなかったというのに。

(観光客じゃないのにヤバイやつと出会うなんて……)

 どうやらこの町に来てからというもの、泉の運勢は下降線の一途を辿っているらしい。

 ……そういう類のものは信じないと、つい先ほど自らに確認したばかりのはずが、疑わずにはいられないことがこの町に来てから立て続けに起こる。

 やはり、夏休みはどこかの寺に行ってお祓いを受けてくるべきだろう…

 と泉は改めて胸に刻み込んだ。


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