キミは聞こえる
 手塚の担当は数学。

 短く、無機質な式が静かに泉を見上げる。

 たちどころに周囲の音が消え、代わりに、頭の中をすさまじいスピードで、数字やギリシャ文字が駆けめぐる。

 おおよその流れが掴めれば、それを実際の字に現す。

 ほとんど消しゴムを使わずにこれだという式を組み立てて、その間も答えを導く回路はフル稼働。

 二分経過。

 焦ってはいけない。大丈夫、冷静さは泉の十八番。

 生来の性格もあるが、その点については栄美で充分に鍛え上げられてきた。

 順調に式を書き進め、間もなくフィニッシュ―――という完成図がすぐそこまで見えたそのとき。

 まるで、頭の中でホワイトアウトが起きたように、蠢いていたすべての文字が一瞬にして消え去った。

 式の上から思い切りバツ印を書く。


 違う、違う違う……こうじゃない。


 隣のページにとりあえず手塚の出した問題を書き写す。
 写しながら、未練は捨てる。

 一からふたたび数字を頭に浮かべ、答えを構築させていく。

 栄美にいた頃の感覚を完全に取り戻した今の頭は、先ほどまでとは比べものにならないくらい、軽やかに思考を回転する。

 やや鈍っていた頭はすっきりとして、回転は脳を熱くするのではなく、むしろ冷静さをいっそう研ぎ澄ませた。

 泉を知能の快楽へと一直線に送り込む。


 これなら、行ける……――!


 がりがりと一心不乱にシャーペンを走らせる泉に、左隣の工藤、桐野が顔を見合わせる。

 明らかに泉のしていることが授業の内容と異なっていることに気づいたのだ。

 しかし声をかけようにも今は授業中、その上、周りには見知らぬ教師がうろついている。

 何をしているのか、思うように見ることも尋ねることも出来ないもどかしさで、桐野は授業に身が入らない。


 彼らの視線など今の泉にはまったく見えていなかった。


 残り、三十秒――。


 佳境に突入した少女の手には汗が滲む。ときおり時計の秒針を見上げては残り時間を確認する、その僅かな時間さえ今は惜しい。


 手塚のペン先が、終了の合図を告げるべく静かに泉の視界に下ろされる。

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