キミは聞こえる
「鈴分橋の下を通っている川の上流がここ」

 言って桐野は指を差す。音だけは立派でも流れは見えない。

 首を伸ばそうとしたら後ろから襟首を掴まれた。

「団体行動乱すなよ」

 泉は首を縮めて素直に詫びた。

「こういう自然の川って、ほとんど見たこと無かったからつい」

 向こうで過ごした、決まった行動範囲の中に、こういったイオンを発生する自然川はおろか、森林浴が出来る森、林といったものは一切なかった。

 だからつい興味を引かれ、心の赴くままに動いてしまった。

「自然に触れたこと、なかったのか」

 心底驚いたように目を見開く桐野に、泉は宙を見つめたまま、静かに頷いた。
 
 そうか……と短く答えて、それからなぜか桐野は黙り込んでしてしまった。

 泉は踵を返し、班に戻ろう、と桐野の顔を見上げた。

 桐野くん? と呼びかけると、桐野は、立ち上る霧に目を向けたまま、妙に畏まった声で言った。

「代谷がこの町にいる限り、自然はすぐそこにある。町全体が山に囲まれてる土地だからな」

 泉はもう一度、見えない、けれど、傍にいるとそれだけで心が洗われるような、尊厳とも言える光景に、視線を戻した。

「緑はいいぞ。人を穏やかにする。ここは水も綺麗だしな。なんというかこう……強張りをほぐしてくれる、っていうかな」

 両腕を広げて桐野はうーんと大きく伸びをする。

 川の向こう、奥に、なお広がる終わりのない深緑を見つめる。


 桐野は、私に穏やかになれと言っているのか。


 肩から力を抜いて楽になれと、そう遠回しに言っているのだろうか。

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