短編集『固茹玉子』
「歩いて来た道を戻るのは無しだ」

 そう考えると俺は、浮かんでいたその選択肢を頭の隅に追いやった。

 お察しの通り、俺は小さな部品工場に勤めるしがない機械工。折角の休みに今までずっと見たかったDVDを満喫しようとTU*AYAに行ったものの、工場に財布を入れたセカンドバッグ(バッグはそれしか持っていないから実質はファーストバッグ)を忘れた事に気付いた。

 しかも事前に気付くならまだいいとしよう。

だが硬軟取り混ぜてうまい具合に借りたDVD(勿論『軟』は『硬』に隠されている。

いやむしろ『硬』は見るべき所の無い旧作で、カモフラージュの為に混ざっているのがバレバレの作品)をレジに積み、

「1週間レンタル」

 などとぶっきらぼうに言いながら、あろう事か割引チケット迄添付してしまった後、俺は財布が無い事に気付いたのだ。

「すいません。財布忘れちゃって、また来ます。これも戻してきます」

 突然その場を席巻する、何とも言えない空気。

BGMは途端に音量を下げたように『なり』を潜め、サラサラと流れていた時間はまるで、徹夜明けの朝、風呂にも入らず寝ほうけてしまった時の、ベタベタとした皮脂みたいに粘度を増し、滞って過ぎ去る事をためらっている。

 さっき迄偉そうに胸を張り、顧客としての権威を必要以上に誇示していた俺は、この予想だにしなかったアクシデントで背中を丸め、卑屈な態度を取らざるを得なくなり、腋に、額に、じんわり汗迄浮いてきた。

 その時俺を襲ったこの喪失感を、そしてこの居たたまれない気持ちを、一体どれ程貴方は解ってくれるだろうか。


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