グッバイ・マザー
 どのくらい経ったか正確には分からない。次第に暗さを増していく室内の様子から時間が経過していることを何となく知った。
 何もかもがどうでも良かった。ただただ眠かった。僕は凄く疲れていた。どうやって室内に戻ったのかもよく覚えていない、そんな有り様だ。
 不意に音がした。玄関の扉が開く音だ。それから革靴を脱ぐ音。廊下を歩く、重くてゆっくりとした足取り。
 部屋に明かりがともる。
「皐月?」
 低くて優しい声が聞こえた。父の声だった。僕にゆっくり近づき、僕の手を握りしめた。大きくて温かい手だった。
 「大丈夫か。」
 ガラスの破片でいつの間にかあちこち切れていたらしい血まみれの手を、父は優しく擦ってくれた。僕の目には涙が溜っていたらしい。ソファに横になっていた僕の頬を、温かいものが伝い耳に流れていった。それがとてもくすぐったかった。
 「おかえり。」
 父が、言った。彼は泣いていた。
「ただいま。」
と僕も言った。
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