馬鹿が飛んだ日

 それから何日かして、俺はまたその二人を見た。その時、初めて兄ちゃんの隣にいるのがクラスメイトの稲葉だということに気づいた。稲葉が、兄ちゃんに向かってあまりにも楽しそうに微笑んでいたので、気づくのに遅れたんだろう。俺は稲葉とは三年間同じクラスだったけど、あいつがあんなに笑っているのなんて、その時初めて見た。何であいつあんなに楽しそうなんだ?とか、兄ちゃんがこわくないの?とか色々疑問に思ったけど、一緒にいた兄ちゃんも楽しそうだったので、俺は何も気にしないことにした。

 俺は家でも兄ちゃんに稲葉のことを聞いたりはしなかったし、学校で稲葉に兄ちゃんのことを聞いたりもしなかった。きっと、俺にはわからない何かが、あの二人を繋いでいるんだと勝手に納得していた。

それからも俺は、兄ちゃんたちが公園で話しているのをたびたび見かけたけど、とうとう何もふれられないまま、稲葉は死んでしまった。
 稲葉の死を知った、あの火曜日。市立図書館から来たという兄ちゃんに、そのことを話しはしなかった。いや、話せなかった。こんなにも兄ちゃんを丸くしてくれたのは、きっとあいつだと思っていたから。

兄ちゃんは、本当は弱い人間だ。俺はよく知っている。小さい時、父さんが死んだ時も、子どもながらに母さんの前では平気なふりをしていたけど、誰もいないトイレで、いっぱいいっぱい泣いていた。そりゃもう、俺や母さん以上に。その時、トイレがしたかった俺は兄ちゃんに「早く出てきて」と言いたかった。でも、父さんに力いっぱいゲンコツされた時もマンホールに手を挟まれたときも泣かなかった兄ちゃんの大泣きシーンに出くわしてしまった気まずさで、言えなかった。

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