偏愛ワルツ
校門を出て右に曲がり、バス停に着く。彼女はまだついて来る。まだ、僕の足音に足音をかぶせてくる。一体感? そんなものはない。だって僕は、彼女の名前以外、なにも知らないのだから。

アクリル板が黄ばんでいるのか、紙が古いのか、文字が霞んでしまっている時刻表を眺める。次のバスが来るまで、あと十五分ほどあった。残念なことに、たった二分前に出たばかりらしい。

教室で彼女と『振り返らないだるまさんがころんだ』をやらなければ、間に合っていたのだ。

多くの人がそうであるように、時間を潰すための方法ぐらい持ち歩いている。僕の場合読書に当たる。こないだ書店で見かけ、タイトルに引かれて買ってみた文庫を取り出した僕を、彼女が見つめてきた。

本当なら無視するところだが……無視できない。彼女が気になるわけじゃない。彼女の眼差しが、熱いわけでもない。むしろ、ガラスの義眼をはめているように、彼女の眼は焦点が合っていない。

ただ、僕のほうに向けられている目玉。それも、僕が読んでいる文庫の、向こう側から。わざわざ腰を屈めて、下から覗き込むように。

それだけのポーズを取っているのに、焦点が合っていない目玉は……というより、彼女は、なにを考えているのだろう。なにも考えていないに違いない。

十五分が、ずいぶん長く感じた。いつもなら本を読んでいるうちにあっという間だ。が、うまく文章に入り込むことができず、眼前には彼女の、ガラスのような黒眼。

本の向きを変えるのは、彼女を意識することだと思った。

だから変えなかった。彼女も、少し屈んだ状態で、動かなかった。

なにも考えず、なにも考えられずすごす十五分は、異様に、長かった。

だからバスが徐行スペースに入ってきたとき、ようやく視界が更新される。まるで、ずっと息を止めていたような気分だった。
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