偏愛ワルツ
彼女は座らなかった。僕がそうしたように、彼女もつり革を――掴まない。代わりに掴んだのは、僕の制服のすそだった。

「やめてくれない?」

「どうして?」

「イヤだから」

「迷惑はかけてないよ」

「かかってるよ」

「どんな風に?」

「精神面に」

「ふうん。照れるの?」

「イヤなの」

お互いに、相手の顔を見もせずに言葉をやり取る。味気ないはずの会話中に、彼女は笑う。くすり。

「さっきね。ドキドキしちゃった」

「さっきって」

「君を覗き込んでたとき」

「……」

思わず振り返った僕はバカだった。

彼女が音もなく口角を持ち上げる。八重歯が覗く。目がきらきらしていた。

「残念だけど、君を見つめてドキドキしたんじゃないの」

「そう」

努めて冷静に、僕は正面に直った。窓の外をちょうど、こないだ立ち寄った本屋が通り過ぎた。

「残念だけど、君にそんなことを言われてもドキドキはしない。今も、さっきも、これからも」

「そう」

「そう」


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