遠まわりな初恋
「じゃあな」
 ふいに聞こえた声に、市橋理沙は思わず顔を上げた。それは、大学の表門前から発車するバス停での出来事だった。
 自宅方面へ帰るバスは、約30分に1本の割合でこの大学前を始発として出発する。前のバスは丁度15分くらい前に出たばかりだから、もうしばらく待たなくてはならない理沙は、ぼんやりと今日の入学オリエンテーションの概要を読みながらバスを待っていた所。理沙の家方面へ帰るバス以外にも何本ものバスが発着するここに、また新たに1台のバスが滑り込んでくる。目的のバスではないから、横目でさらりと受け流して終わるはずだったのだが、ふいに真正面から声が降ってきたから、驚いた。
 若い、青年の声だった。
 視線を上げた先には、今まさにそのバスへ乗り込もうとステップに足をかけた状態で、こちらを振り返る人が一人。入学式があったせいだろう、スーツ姿だが、上着は脱いでリラックスした状態だ。左手には上着と一緒に、理沙ももらったオリエンテーションのガイダンス冊子が一つ。同じ大学の生徒であることは間違いない。
 だが、理沙には見覚えがなかった。
(だれ・・・?)
 当然の疑問が頭を掠める。ひょっとして自分ではなかったのかと首だけ小さく左右にめぐらせるが、随分と離れた場所に生徒らしき姿が見えるだけだ。もう一度見返した青年の視線は、やはり理沙を真っ直ぐに見つめていた。
 不思議に思って小首を傾げると、青年は目を細めてふっと小さく笑った。「じゃあな」という言葉の通りに、スーツの上着ごと片手を挙げて挨拶すると、そのままバスの中へと消えていく。
 彼のかけていた眼鏡のレンズがきらりと夕日に反射して、思わずまぶしさに視線をそらすと、間をおかずに扉が閉まり、バスはゆっくりと発車していった。
(なんだったんだろう)
 まるでこちらを知っているかのようなあの態度。だが、理沙には欠片ほども見覚えがない。
 バスが発車してからも、こちらをじっと見ていたようだったが、初対面といってもあれほどに視線を向けられるような何かを、した覚えもなければ、自分にそんな特徴のある人間だとも思わない。
 念のために記憶の引き出しを散らかしてはみるが、やはり見つからない。
「うーん・・・」
「何うなってんの?」

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