哀悼歌
「好きなの」
オレンジジュースを、危うくこぼしてしまう所だった。
けしてそんな、盗み聞き、だとか。そういうんじゃない。ただ偶然聞いてしまったその言葉は、少女漫画でしか見た事がないような、ある意味希少価値のある言葉だったので…びっくりしてしまっただけなのであって。
その場に座り込んだのは、お姉と遊びに来たお姉の友達に、おやつを渡すためのタイミングを見計らっていたから、で。
「私、近の事、…好きなの」
いつも穏やかで優しいお姉が、熱を帯びた声でその男の人に迫っている様子だった。心臓が痛いくらい跳ねた。
「…んでしょう?…だから、その…」
ぼそぼそと声が小さくなる。ドアに張りついたらそりゃ聞き取れるんだろうが、そんな事をすれば本当にただの盗聴だ。それでも無意識に、頭をドアに近付ける。
ちょっと前、想像したばかりだ。
お姉に、もし仮に彼氏が出来たり結婚したりなんかしたら…なんて極めて近未来のお話。
そうしたら、凄く嬉しくて、少しだけ嫌だった。
お姉はきっと素敵な男性をパートナーに選ぶんだろう。だって、あんなにも綺麗で優しいお姉だ。きっとお姉を幸せにしてくれる、いい男性に違いない。
けれど、少し不安になった。そうしたら、血の繋がらない義理の妹の事なんか、忘れてしまうんじゃないのかな、と。
想像した通りやっぱり今、複雑な気持ちになった。
部屋からは、お姉の息遣いだけが聞こえる。男の人は存在すら疑う程に気配がない。
数秒後、やがて息を吸い込む微かな音が聞こえた。
「…悪い」
やたらと近くで低い声…と思いきや、唐突に大きく部屋の扉が開かれた。必然的に私は頭を扉にぶつける事になり、短い悲鳴を上げてごろりと床に転がる。痛い。
「…?、…」
部屋から出てきた男は引っ繰り返っている私を、一瞬じとりと睨んだ。
容姿は、いい方だと思う。整った顔立ちをした切れ目で、少し長めの黒髪。お姉の通う高校の男子制服をきっちりと着ている。真面目な人なのかもしれない。
…こいつ今、お姉を拒まなかったか?
私がじっと睨み返していると、不快に思ったのかドアを静かに閉め、狭い廊下を歩いて玄関へ向かう。慌てて立ち上がると、膝でジュースを引っ繰り返した。