哀悼歌
「…っ」
右手を握りしめ勢いよく振り上げた。ただ、一思いに殴ってやろうと思った。
何でこんな男をお姉が好きになったのか、甚だ疑問だ。頭がいいのか容姿がいいからなのか、まさか性格がいい訳ではないだろうが、しかし結果としてお姉をふったのだから、重要視するのはそこだけで十分だろう。
「…あーちゃんっ」
急に響いた聞き慣れた声にはっとして、お姉の部屋があった方向に顔を向けると、見慣れた姿がスリッパをぱたぱたと鳴らしながらこちらに走ってきていた。長い髪の毛は二つに纏められている。今にも男の頬に打ち付けそうな私の拳と私を代わる代わるに見つめ、状況を把握したお姉は泣きそうに顔を歪めた。
「…お姉」
「ご、ごめんね…」
悲しそうに首を振って、私と、私の下敷きになっている男に謝った。
違う。お姉を悲しませたかったんじゃない。
私は目的が外れてしまったのを察知し、さっと右手を引っ込めて男から体を避けた。その男――近、とか言ったか。そいつはふらりと立ち上がり私には目もくれずに、お姉だけを一度見ると、かかとの折れていない新品同様の、しかし年季が入った靴を履いた。お姉は無言でその靴が歩み出す様子を見つめている。
もしくは、何処も見ていない。
玄関の扉をしめる最後の一瞬まで何も言わなかったその背中を、私はきっととても醜い顔で見据えていたんだろう。
お姉はあの後、何事もなかったかのようにお父さんの帰りを笑顔で出迎えた。逆に私はずっと部屋に引きこもって、気分を変えてみようと趣味である絵を描いていた。
否、描こうとしていた。
しかしこんなにも悶々とした状態では楽しめないどころか、鉛筆が折れるに折れて見事に4本が無駄になった。芯が部屋中に散らばっている。
お姉はあの男と付き合う事が出来たら、思いが通じれば、幸せなんだろうか。
それなら私はなんとしてもその願望を叶えたい。お姉の望みは私の望みなんだ。あの最低男を好きになった理由も、多分、何かしらある…んだろう。お姉が好きになる人なんだから。
目を瞑り、お姉の事を考えていた。