あたしが眠りにつく前に
 今日は、暑いな。珠結が額に滲んだ汗をとりわけ白い左手の甲で拭っていると、多くの足音が聞こえてきた。見れば昇降口から男子生徒がわらわらと、小走りで運動場へと駆けて行く。時計の時刻は4限の開始時刻を過ぎている。

内容が内容なだけに集中して話し込んで周囲をシヤットアウトしていたからか、予鈴が鳴ったのにも、集まった生徒達の存在にも気づかなかった。里紗も同様らしく「あ」と声を漏らす。運動場の中央では2クラス分の男子生徒が体育教師の前で整列を完了させていた。

 なぜ彼らは今頃? 校舎から出てきた生徒が教師に報告する声によると、前の授業の理科の実験が長引いたせいらしい。続々と列に合流していく。男子とはいえ、見覚えのある顔ぶれがちらほらと見える。2年生の前半の3クラス、つまりは‘彼’もいるということで。

 噂をすれば何とやら。必然かのように、一つの顔が目に飛び込んできた。塚本圭太と連れ立って歩く、遠ざかった顔。高鳴りとは違う、ズキズキとした鈍い痛みに胸を押さえる。制服姿の彼は塚本と別れ、体育教師に何か一言二言告げると木陰に腰を落とした。

 体育教師の隣にはサッカーボールの詰まった籠が出番を待っている。先週までは体力テストの計測で、去年と流れが同じならば女子は体育館でバレーのはずだ。覚えていれば、ここには来なかった。

「…一之瀬君、見学なんだね。調子悪いのかな。きっと、上手なんだろうな」

 心は否定するのに、珠結の目線は帆高から逸らせない。気づいた里紗は控えめに努めて自然に呟いた。

「上手いよ、サッカー部だったし。学外のクラブにも入ってて、両方ともレギュラーだった。…中2の夏までの話だけど」

「どうりで前に塚本君が勧誘で騒いでたはずだぁ。なんかもったいないねー。何でだろ」

「あたしが、奪ったから」

 その一言が異様に乾いていた。横からでもわかる程に、珠結の目は冷え冷えと。気候は暑いぐらいに関わらず里紗の背中では悪寒が走った。しかし振り返った珠結の目からはすでに消え失せていた。

「うわ、もうこんな時間だ。里紗、そろそろ戻ったほうがいいんじゃない? 先生も見回りに来るだろうからさ、もぬけの殻は…まずいでしょ」

「う、うん、そうす……どうしたの!? 顔、真っ白だよ!!」

「え? ううん、何でもないよ、だから…」

 頭が前に大きく傾く。瞼が重く、焦点が定まらない。一旦は退いたと思ったのに、発作が。

「珠結、それ…!!」

 とっさに強く目を擦ったのがいけなかった。左手の甲に巻いた包帯が赤く滲んでいる。転んだと嘯いて昨日巻いたばかりの、真っ白な布地に。

「は、は。傷口、開いちゃったみた…い。保健室でかえて、くる」

 立ち上がった、つもりだったのに。気づけば目の前には芝生の青。里紗が焦りと動揺を含んだ声で名前を叫び、体を揺さぶる。前後からザワザワと人の気配が集い出す。

覗き込んでくる里紗の目には、止まったはずの涙が浮かぶ。ごめんね、泣かせてばかりだね。大丈夫、すぐ起きるから。だから、どうか…。

 意識が断たれる直前、遠くからひどく懐かしい声が届いた気がした。
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