あたしが眠りにつく前に
「……ん」

 珠結が目を開けて真っ先に目にしたのは、けばんだ色の天井だった。右方に目線を傾ければ、大きな三つのしみが広がっている。人の顔みたいだと、幼い頃は脅えていたもの。ということは、ここは自宅の自室なのだと分かった。

 いつから寝ていたのだろう。記憶を辿れば最も新しい記憶は美術の授業の時、保健室に行きかけて倒れこんだところでプツリと途絶えている。それからの記憶は無い。もちろん、家に帰ってきた記憶も。

 自分が倒れたあの後、どうなったのだろう。あんなのを目の前にして、里紗はきっと心配しているだろう。携帯を、と起き上がりかけると、ドアの向こうの廊下から足音がした。

「お母さん?」

 家にいておかしくない人間といえば、母親しかない。時計を確認すればおやつの時間を少し過ぎた頃。迎えに来るために、会社を早退したのだろう。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 珠結は若干怠さの残る体を起こす。ごめんなさい、また心配かけて。しかしドアの向こうにいたのは予想外の人物だった。

いるはずのない、よりにもよって、彼が。どうして。一之瀬帆高は珠結が問いかける前にドアを閉めた。足音が遠ざかる。

 思いもしないことが起きると、声は出ないし思考がフリーズする。そう身をもって体験した瞬間だった。これは夢だ、悪い夢だ。頬をつねる。痛い。ということは。
 
 混乱する頭で現状を整理し、しばしして再びドアが開いた。小さな土鍋と湯飲みを載せた盆を持って、帆高は枕元に座り込む。

「どうして…」

 帆高は黙って傍にあったミニテーブルを寄せて盆を置く。その間、一切目を合わせない。「食え」と無言の圧力に二の句が告げなくなる。重苦しい空気の中、珠結は湯気の立つ粥に息を吹きかけながら口に運ぶ。葱と刻みのりを散らした玉子粥、風邪をひいた時は必ず作ってくれた母の味。

「お母さんは…」

「買い物。あと30分ぐらいで帰ってくる」

「学校は…?」

「今日は土曜日」

 帆高はグレイのTシャツにデニム姿。そっけない声で、目線は壁に向けたまま帆高は肩膝を抱える。当日ではなく、日にちを跨いでしまっていたのか。ほとほと、よく眠ってしまったものだ。

「…えっと、お母さんに頼まれたの?」

 答えは無い。沈黙に耐えかねての苦し紛れの話題提供が、功を奏すはずも無く。黙々と粥をレンゲですくい、租借する音が空しい。

「その…、ありがとう。もう大丈夫だから、帰ってくれても」

 そこそこの量はあった粥を平らげて湯飲みのお茶を飲み干しても、帆高はその場から動かなかった。

「…怒ってるよね」

「あんな事言われて、頭に来ない奴がいるなら見てみたい」

「酷いことしたと分かってる。…でも謝らないし、許してほしいとも思ってない」
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