あたしが眠りにつく前に
 火に油だと思ったが、帆高は無表情で無反応を貫く。気まずい。ふと視線を逸らすと、姿見にパジャマ姿の自分が映っている。

「あ、の。服は…」

 ここで初めて帆高がこちらを向いた。パジャマと口ごもる珠結に、ああと呆れたように答える。

「俺な訳無いだろ。でも‘それ’はそうだ」

 顎で示される先に目を落とせば、左手の白一色の包帯。珠結は隠すように右手で覆う。

「それとな、もう知ってんだよ。うまく隠し通してきたつもりでもな」

 想像できないほど強い力で、帆高は珠結の左手首を掴んだ。振りほどこうにも非力な珠結には適わず、不本意にも屈服するしかなかった。パジャマの袖が一気に肘までまくられる。

 白くて細い腕に散らばるは、無数の青紫の華々。決して、誰にも、見せたくなど無かったのに。珠結の腕が力を失い、ダラリと垂れる。

「右腕も両足も変わらないだろ。この手だって…。こんなになるまで、傷つけて」

 包帯の下は見せられるものではない。うっかり深くえぐってしまった、塞がってきたものの痛々しさ抜群の傷なんて。顔が熱くて震える。なぜか? 羞恥と怒りでだ。

「それが何!? 人の秘密に勝手に踏み込んどいて偉そうに! 何様のつもり!?」

 君にだけは見られたくなかった、こんな姿。歪みきった醜い顔を。自分を傷つけて止まらない、止められない。壊れつつある愚かなこの身を。

「帰って! 帰ってよ!! 二度とあたしの前に現われないで」

 これ以上嫌悪しないで。畏怖しないで。

「見ないで…!」

 カワイソウニと、その瞳を憐れみの色で染めないで。

「何で、泣くんだよ」

 言われて、自分が泣いていることに気づいた。ずっと泣いてこなかったのに、なぜにこんな容易く。

「泣いてなんか…」

 言いながらもその声は震え、しゃくりあげる。右手で塞ごうにも指の隙間から嗚咽が漏れる。左手は帆高に封じられたままで、涙を拭うことは叶わない。

「俺は何もできない。何もかも、奪われたから」

 間近で目が合った。かつて魔眼と囁かれるまでの、強い眼差しの名残はどこにも見当たらない。どんよりと、深い海の底にいるような光の見えない目。これは誰かと錯覚させるほどに、彼は彼でなくなっていた。

 瞳だけでない。過ごす時間と積み重ねてきた過去の共有、差し出す手の行く先も名前を呼ぶ権限も何もかも奪った。必要無いでしょと子供の手からゲーム機を取り上げる母親よろしく、相手の言い分も聞かず一本的な持論を振りかざした。帆高の手が拳を形作る。

「全て俺だけのもので、手放す気なんて更々なかった。人のものを盗るな、ってそんな簡単なことも忘れたのか。返せ、一つ残らず。俺のものをどうするかなんて、俺自身が決める」

「そんなもの、そこまで拘る価値なんて無いのに」

「価値の有り無しも俺が決める」
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