あたしが眠りにつく前に
 価値なんてあるだろうか。それでも、帆高は取り戻したいと願う。珠結が奪ったものは、彼が彼であるための断片だった。一之瀬帆高(おれ)を返せと彼は呻く。

 彼自身を奪うつもりなんて。枷を取り除いて彼らしく生きて欲しかった。逆効果だなんて信じたくはない、自分のしたことは何だったのか。…ああ、きっとこれまでの世界が狭すぎて、いざ広い世界に放り出されても身動きが取れないのだろう。

新しい自分を見つけるのも可能なのに、過去の自分に固執する。目を覚ませ、開いたその瞳で視ろ。

「どこまで、知ってるの」

「それなりに」

 ソースは母か、念入りに口止めしておいたのに。とはいえ昔からの馴染みがあることだし、責める筋合いなんてあろうか。知ってしまったのならば、隠しておく必要なんてなかろう。そう思うと、心が落ち着いた。どこかで、知ってほしいと望んでいたのかもしれない。

「あたしは普通じゃないって分かってた。けど、信じてた。健康でまっさらな人にとっては異常でも、同じように抱える人の中では普通なんだって。自分だけじゃないんだから悩まなくてもいいんだって。でも違った。ナルコレプシー、過眠症、無呼吸症候群とか、今までいろんな可能性が疑われてきた。だけど、どれにも断定することはできなかった。それぞれの症状を少しずつつまんでかじったみたいに、ぴったりと当てはまらなかったから」

 この世界には睡眠障害を伴う病が多く存在する。たとえばナルコレプシー。主な症状には睡眠過多や喜怒哀楽などの感情の起伏によって体が脱力する、情動脱力発作がある。他にも症状があるが、珠結が当てはまるのは睡眠過多をもたらす睡眠発作のみだった。

それ自体に問題はない、‘情動脱力発作を伴わないナルコレプシー’の診断は存在する。とはいえ、ナルコレプシーには夜間の睡眠過多の症状は含まれない。

 そこで過眠症に思い至る。昼間と夜間での過度の睡眠の繰り返しはまさにそれだった。
幼い頃から良く眠る子だと我ながら思ってはいた。しかし病気であると宣告されたのは衝撃だった。睡眠量が多いその症状に患者本人の病としての自覚はなく、他者から見ても気づかれない。よって診断に至るまでの期間が長引き、まさかと驚くケースが多い。

珠結も例に漏れず自覚していなかったが、母親がいくつもの病院を駆け回った。そうして自宅から遠くも、現在のかかりつけとなった病院にて診断を受けた。専門医の少なさや、症状への診断の困難さが根底にあったのを知るのはもっと先のことである。

 帆高の表情は真剣なまま変化せず、ひたすら耳を傾けている。母から聞かされた範疇だったか、または陰で独自に調べていたのかもしれない。改めて話す必要はないのではないかと頭を過ぎったが、珠結は口をつぐめなかった。話したい、聞いて欲しい思いが止まらない。

 治療は薬物治療を用いる。しかしそれは対症であって根本的なものではない。中枢神経刺激薬を毎日服用し、そして長期の治療になると医師から前もって告げられ、覚悟はしていた。

当時小学生の珠結にドラッグやアルコールの乱用はあるはずがなく、体重は平均よりやや軽め。結局のところ発症原因は不明だった。日々の行動改善も症状の緩和を見込めるも、そもそも改善が必要な点がないため、処方薬にしか頼らざるを得なかった。

 先は長くとも、病名が判明した上で治るのならば。それで良かった。
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