あたしが眠りにつく前に
「聖人君子とか、利用してたって話は、あたしの嘘だって分かってた? なら、気にすることもなかったのに」

「拒絶されたことに、変わりはないだろ」

 ぽす、と珠結も帆高の肩に額を寄せる。自分のよりも、骨ばっていて広い。

「入院先の大学病院、かなり距離あるから電車もバスも使わなきゃだし、片道2時間はかかるよ」

「さすがに毎日とまではいかないけど、週末には行く。それに夏休みになれば、時間は有り余るほどある」

「前回よりもかなり長く入院するのは確実だよ。ストレス溜まりまくって、八つ当たりするかもしれない」

「仕方ないだろ、それは。むしろ、それでいいから発散しろ。でも三回に一回は跳ねっ返すから、当るからには覚悟しろよ」

 なによそれ。珠結はふっと微笑んだ。どちらからともなく顔を上げて、二人は見詰め合う。

「治るかどうか、保障はない。それでも傍にいてくれるの? いつ退院できるかも分からないし、数年後、数十年後かもしれない。もしかしたら二度と…」

 それを一番聞きたかった。帆高の右手が伸びてきて、珠結の頭にぽんと置かれる。最悪の結末を暗示する言葉は自然と遮られた。「待ってる」囁かれた言葉は力強い響きを持っていた。

自由な時間をより制限するにも関わらず、彼は平然と切り返す。『全ては自分のしたいことだから』帆高はそう答えるに違いない。傍から見れば‘珠結のため’なことばかり。当の帆高は気付いていないし、進言されても頑なに否定するだろう。

 壊れ行くこの身は、君と一緒にいられない。ならばいっそ先手を打って、自分の手で切り離してしまおう。君は離れないだろうという愚かな自惚れが崩れて、傷つく予想を恐れて。でも一方で気持ちが変わらないでくれたとしても、結局は罪悪感を抱えていくのならと。だから、逃げた。

 かつてそう信じてやまなかったがための行為の罪は、一生消えやしない。それでも彼は、不自然なほど自然に許してくれてしまう。彼は愚かなまでに優しくて、困難な道をためらい無く進む実直な人。

その損な気質に気付かなければいい、変わらないでとと願ってしまうなんて、自分本位だと思う。でも彼がそんな自分でも必要だと、望んでくれるのだから。

 また君に、依存しよう―――と、しがみついてしまうのだ。

「うん、分かった。それで、いいんだね?」

「やっと分かったか、この大馬鹿」

「大馬鹿なのは、そっちじゃない。頭は良いのに、そういう所は…。高校、本当ならもう1ランク上の学校行けてたでしょ。先生に説得されなかった? 2ランク上だって夢じゃなかったのに」

「どうでもいい。た…。いなければ、何の意味も無い。部活をやめたのも同じ高校を選んだのも、一番近い存在であろうとしたのも全部、俺の意思だ。ワガママなんだよ」

 どこがワガママだというのだろう? まったく盲目なのだから。…ああ、そうだ。まだ、返していなかった。

「ごめんね、ありがとう。―――帆高」

 君が微笑う。珠結。君が呼ぶ。

ただいま、お帰り。珠結は心の中で唱える。それは帆高も言えることであって。至近距離で見る帆高の瞳には、幸せそうに微笑む自分の姿。そのまた奥には、いつかと変わらぬ強い光。空洞で濁っていた悲しい眼の名残はどこにもない。

戻って来た。お帰りなさい。もう一度、珠結はそっと呟いた。
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