あたしが眠りにつく前に
 このことを本人に向かって口にしたことは、かつて一度もない。

「何言ってんだ? とうとう頭が狂ったか」と無表情で返されるのが関の山だ。目の前の青年は教師のようにキビキビとした声で、解釈のポイントを的確に説明している。

 いけない、いけない。よそ事を考えていると知られたら、どんな叱責を食らわされるか分からない。

珠結はブンブンと頭を振ってイメージを振り払い、現存する日本最古の物語の何とかの皇子とやらの嘘っぱち冒険談に耳を集中した。


 勉強開始から一時間後。首が多少痛くなってきた。

「…はぁ」

 珠結は数学の問題集を眺めながら、大きく息を吐き出した。この短時間で古典、物理に続いて3科目も頭に詰め込むのは、結構きつい。

「溜息やめてくれないか? 辛気臭いのが伝染る」

「失礼ね。人を病原体みたいに言うのこそやめてくれない? まぁ、せっかく教えてもらっときながら不謹慎だったけど」

「へぇ、不謹慎って知ってたんだな。オミソレシマシタ」

 あぁ、何て腹の立つ皮肉家。人がどんな思いで君を見ているのか分からないくせに。もういっそ、一時間前の内心を前言撤回しようか。

 「そんなんだとモテないわよ」喉まで出かかった言葉はそのまま飲み下す。何と言っても実際、帆高はモテる類の人間であることは知っている。

整った顔立ちにして勉強もスポーツも得意、人あたり――自分以外に対して――もなかなか良い。

 そんな男に何を言っても所詮負け犬の遠吠え。吠えたところで向こうはダメージゼロ、むしろ倍返しの法則で棘どころか杭を打ち込まれるのが目に見える。それでも反撃を試みてしまうのは生まれながらの性分だ。

「だいたい、帆高のせいでもあるんだけど!?」

「1問で10分も行き詰ってるのが? 何の八つ当たりだよ」

「その視線!!」

 珠結は問題集から顔を上げ、帆高を勢いよく指差した。

「意味が分からない。何が言いたいんだよ。具体的に言え」

「見られてると集中できないの! 気になってしょーがないっ」

「教える立場なんだから仕方ないだろ。 ほら、分からないならさっさとギブアップしろって。それが不満なら読みかけの本、読んでていいか。待ってるだけだと、退屈なんだよ」
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