あたしが眠りにつく前に
「そんなことないっ。だってそれは…!」

「罪滅ぼしになんてならないけど、せめて少しの間だけでも良い母親ヅラさせてよ。我が儘なんていくらでも言って。何でも叶えてあげるから…って元々、子供が親に気を使う必要は無いっ! ほら、返事!!」

 なぜか終わりの部分で急に叱られ、珠結は慌てて首を縦に振った。それを確認すると彼女は珠結の頭に手を伸ばしかけたが、さっと引っ込めた。

「リンゴの汁でベタベタだから、手洗ってくるわ。ゆっくり食べてなさいよ」

「は~い」

「…珠結」

 数歩行ったところで、彼女が立ち止まった。

「良くなったら、北海道も行こうね。修学旅行、行けなかったし。皆でワイワイととは行かないけど、せめて里紗ちゃんや仲のいい友達も誘って。…あの子でもいいわよ。誘ったら、二つ返事で乗ってくれるでしょ」

「はは。お母さんの、お気に入りだもんね。誰と行くかは未定として、楽しみにしてる」

「絶対ね」

 母が廊下に消えるのを見届けてから、珠結は息を大きく吐いた。母の‘絶対’の言葉には、とりわけ強い想いが含まれていたと思う。返事を聞かないまま行ってくれて良かった。いくら親子とはいえ、やはり約束できなかったからだ。

 珠結は再びリンゴに手を付けようとしたが、やめた。ウサギを4羽残したまま皿をテーブルに置く。何となくウサギが寂しそうに見える。黄ばんでしまうのは残念だ。買って剥いてくれた母に申し訳なく思うも、これ以上はどうしても口に入らない。

珠結の食欲は常時、低下したままだ。症状の1つだろうと担当医は言った。それでも今日は、そんな陰鬱な現実を吹き飛ばすニュースができた。

 家に帰れるのだ。病院で辛い思いをさせられているわけではなく、むしろ看護師達は皆優しい。近隣の患者達とも上手くやっている。問題だった隣人とは挨拶は交わしているし、もうすぐ退院できるらしい。

それでも帰宅はずっと願っていた、特別なこと。睡眠発作が継続してもいい。食が細いままでも体の怠さが付き纏ったままでもいい。

晴天の霹靂でも起きて少しでも良くなれば、自分のことは自分でできるようになりさえすれば。向こうに帰れる。完治なんて高望みはしない。少しぐらい生活に支障があっても、周囲に迷惑がかからなければ十分。

「一時帰宅かぁ…」

 呟く声は自然と弾む。帆高も里紗も皆、きっと喜んでくれる。いつ知らせようか、いやいっそ内緒にしておいて、体育祭当日に突然現れて驚かせようか。

でも誰にも話さないでいるのももどかしい。なら帆高にだけは知らせておこうと、珠結は皿をテーブルの端に寄せてメモ用紙とボールペンを取り出した。
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