あたしが眠りにつく前に
 帆高の声がテープに残されていることはない。帆高は小さい時から写真やビデオに自分が映るのを嫌がっている。遠足や修学旅行ではカメラをとことん避けるし、残っているものと言えば卒業アルバムの個人写真か集合写真ぐらい。

昔帆高の家で見かけた家族写真の彼は仏頂面だった。珠結でさえ、二人で写ったものは一枚しか持っていない。

声を残さないのも、同じような感覚からかもしれない。その容姿でと、珠結はもったいなく思うも、人には色々とあるらしいと飲み込んでいる。

見舞いに来て珠結が眠っている時は、帆高は数行のメッセージを書いたメモを残していく。珠結も目覚めたら、そこに返事やコメントを書き足しておく。

来る頻度は母に次いで多いため、メモの数も溜まっている。ノートでも用意しておこうかと検討している最中だ。

『来週、家に帰れるかもしれない! すごく楽しみ!!』

 学校はとっくに始まっているため、帆高が来るのは次の休日のどちらかだ。直接伝えたいのは山々だが、如何せん自分の体が分からない。珠結は書き上がった字を確認し、ペンの蓋を閉めようとする。しかしそれは手から滑り落ち、床で数回跳ねて窓の下近くまで転がっていった。

上体を折り曲げて腕を伸ばすも届かず、ベッドから下りて拾うしかない。珠結は床に足をついて一歩進み、しゃがんで蓋を拾う。そして体の向きを変えながら、普通に立ち上がろうとした。

「……!!?」

 次の瞬間、珠結はよろめいて床に膝をついた。目の前のベッドの枠に手をかけて立ち上がろうにもできない。足に力が入らないのだ。

頭の中で警鐘が鳴り響き、体がパニックでガタガタと震え出す。それでも珠結は混乱する脳を何とか押さえ付け、ゆっくり息を吐く。足を摩りながら深呼吸を続けると、次第に足の感覚が戻ってきた。珠結は今度こそ慎重に立ち上がって、ベッドに倒れ込んだ。

 ……何、今の。

 シーツに顔を埋め、珠結は何とか今起きたことへの理解に努める。心臓は今だバクバクと速いリズムで脈打つ。簡潔に言えば、突然足に力が入らなくて立てなくなったということ。こんな感覚は…初めてだ。睡眠発作のせいではないことは確か。‘今’は眠くはないからだ。

気のせいだと言ってしまえばそれまでだ。寝てばかりいて足が鈍ってしまっただけということもありえる。

聞き慣れた足音が近付いてくる。とにかくこんな不安定な自分を見られる訳にはいかない。珠結は何事もなかったような態勢を整える。

 右側は窓で左隣りはカーテンが引かれ、向かいのベッドの患者は夢の中。誰にも見られていないことにひとまず安心する。

「珠結。あたし、ちょっと電話かけてくるけど…。どうしたの? 顔色、悪くない? 汗もかいてるみたいだけど」

「なんでもないよ」

 そう返して、曖昧に笑うだけで精一杯だった。一人になると、珠結は頭を抱えて思い返す。
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