あたしが眠りにつく前に
「せんせー?」
ズイッと目の前に顔が迫る。気を抜いていたこともあって、ピントが合わないほどの近距離に帆高は反射的にのけぞった。
「…いきなり、何だ。近い近い」
「だって、さっきからずっとボーっとしてたでしょ。何考えてたの?」
テーブルを挟んでつんのめってきていた少年は、座布団代わりにしていたクッションに座りなおす。
「まあ、な。少なくともお前とは関係ないことだ」
「ひどい~。ねえ、難しいこと? せんせい、怒ってるような顔してた」
「ああ。勉強よりも難しくて、複雑なこと。ほら、余計なことは考えなくていいから」
ふうん、と少年は握っていた鉛筆をかじる。帆高がキッと睨めば、慌てて口を離す。見かけるたびに無言の注意をするのだが、癖はまだまだ抜けないらしい。それでも頻度は下がったと思う。
「で。呼んだからには、もうできたのか?」
「うん!」少年は意気揚々と開かれたノートを差し出す。珍しく早いな、と帆高は目を通す。十数秒の後、少年が見た帆高の顔には予想していたような笑みが…浮かんではいなかった。
「えっと、どうだった?」
「…‘書いた’という事実は認める。だがな、全部やり直しだ! 解いたうちに入るかっ」
「えええ!? 自信あったのに!!」
信じられないとばかりの悲鳴に近い叫びに、帆高は眉間を押さえる。これが宿題でなく自習用の問題集なら、赤ペンと青ペンで容赦なく書き込んでいた。気を取り直して教科書の一問目の問題をシャープペンシルで指し示す。
「この問題、150kmの距離を進むのに車で3時間かかった。この車の時速を求めるわけだが…時速350kmとはどういうことだ? 家族での外出とかで車の助手席に座って、メーターを見たことあるか?」
「…ないよ、たぶん。意味が分からなかったから、適当にかけちゃえばいいかな、なんて。違うの?」
「かけた答えも違うんだが。まあ、それは後だ。とりあえず‘みはじ’の図を書いてみろ。今日、習ったんだよな?」
少年は困ったように首を傾げる。目測、120°。帆高が書いてやっても、首は90°の位置に戻らない。150°に拡大する。
「…時速の意味は分かるか」
逆方向へと60°。
「……授業聞いてたか」
へへ、頭を掻きながら少年が笑う。ああ、いつにも増して一発殴りたい。怒鳴りつけて膝詰めで説教したい。しかし彼はよそ様の子供であって、自分とは赤の他人だ。そして一種の‘お客’でもある。もしも自分の弟だったら、しごきのレベルで脳髄に叩き込むのだが、そうは行かない。
これだから他人に教えるのは向いていない。教職など、とてもじゃない。再認識し、鬼教師へと切り替わるスイッチを押さないように、冷静さを纏って口を開きかけたところで溜息が聞こえた。
ズイッと目の前に顔が迫る。気を抜いていたこともあって、ピントが合わないほどの近距離に帆高は反射的にのけぞった。
「…いきなり、何だ。近い近い」
「だって、さっきからずっとボーっとしてたでしょ。何考えてたの?」
テーブルを挟んでつんのめってきていた少年は、座布団代わりにしていたクッションに座りなおす。
「まあ、な。少なくともお前とは関係ないことだ」
「ひどい~。ねえ、難しいこと? せんせい、怒ってるような顔してた」
「ああ。勉強よりも難しくて、複雑なこと。ほら、余計なことは考えなくていいから」
ふうん、と少年は握っていた鉛筆をかじる。帆高がキッと睨めば、慌てて口を離す。見かけるたびに無言の注意をするのだが、癖はまだまだ抜けないらしい。それでも頻度は下がったと思う。
「で。呼んだからには、もうできたのか?」
「うん!」少年は意気揚々と開かれたノートを差し出す。珍しく早いな、と帆高は目を通す。十数秒の後、少年が見た帆高の顔には予想していたような笑みが…浮かんではいなかった。
「えっと、どうだった?」
「…‘書いた’という事実は認める。だがな、全部やり直しだ! 解いたうちに入るかっ」
「えええ!? 自信あったのに!!」
信じられないとばかりの悲鳴に近い叫びに、帆高は眉間を押さえる。これが宿題でなく自習用の問題集なら、赤ペンと青ペンで容赦なく書き込んでいた。気を取り直して教科書の一問目の問題をシャープペンシルで指し示す。
「この問題、150kmの距離を進むのに車で3時間かかった。この車の時速を求めるわけだが…時速350kmとはどういうことだ? 家族での外出とかで車の助手席に座って、メーターを見たことあるか?」
「…ないよ、たぶん。意味が分からなかったから、適当にかけちゃえばいいかな、なんて。違うの?」
「かけた答えも違うんだが。まあ、それは後だ。とりあえず‘みはじ’の図を書いてみろ。今日、習ったんだよな?」
少年は困ったように首を傾げる。目測、120°。帆高が書いてやっても、首は90°の位置に戻らない。150°に拡大する。
「…時速の意味は分かるか」
逆方向へと60°。
「……授業聞いてたか」
へへ、頭を掻きながら少年が笑う。ああ、いつにも増して一発殴りたい。怒鳴りつけて膝詰めで説教したい。しかし彼はよそ様の子供であって、自分とは赤の他人だ。そして一種の‘お客’でもある。もしも自分の弟だったら、しごきのレベルで脳髄に叩き込むのだが、そうは行かない。
これだから他人に教えるのは向いていない。教職など、とてもじゃない。再認識し、鬼教師へと切り替わるスイッチを押さないように、冷静さを纏って口を開きかけたところで溜息が聞こえた。