あたしが眠りにつく前に
 生意気な、と憤りながら帆高は問題集への目線を少年に向けたが、彼はきょとんと右隣を向いていた。

「すみません、先生。まさかこいつがこんなに馬鹿だとは思っていませんでした。情けなくて、俺が穴に入りたいぐらいです」

「兄ちゃん、どこの穴に入るの? 何で? …痛っ!」

 学生服を着た少年の兄は弟の頭を掴んでテーブルに押し付け、自分も頭を下げてくる。少年は「やめろ」とジタバタもがくも、小学生が中学生の力に適うはずが無い。

「おい、お前が謝る必要なんて無いだろ。もういいから、手を離せ」

 頭への圧力が無くなるなり少年は兄への反撃を企てるも、あっけなく手首を掴まれて妨げられる。代わりに「痛い痛い」とうめき出す有様。締め付けてくる手の拘束をもう片方の手で解こうにも、歯が立たない。

「ああもう、やめろ! 今は勉強の時間で、兄弟喧嘩の時間じゃない!」

 本気の喧嘩に発展しそうなところで、雷を落とす。自分は二人の父親でもなければ、教育論を語れるような本場の教師でもないのに。叱るという行動は上から目線ゆえという意識概念がしないでもない。何となく、決まりが悪くなる。

ただ、「ごめんなさい」と揃って肩をすくめるのには、噴出しそうになった。さすが兄弟ならではのシンクロというものか。
 
「こいつ、いつもこんな感じなんですか。それなら先生には、かなりご迷惑をかけてますよね。おい、分かってんのか」

 頭を小突いた兄を睨み、二人の間で火花が散る。諌めるつもりで咳払いをすれば、互いにそっぽを向く。普段は兄弟別々で勉強を見ているため、兄は弟の授業態度を今日初めて見たのだろう。

 元々は中学3年の兄の方の受験勉強を見る名目でこの家に通い出した。しかしできれば成績の良くない弟も、と彼らの母親に頼まれてからは時々学習に付き合うようになった。

回数を重ねるごとに分かったのは、この兄弟の性質は全くの正反対だということだ。始まったばかりでここまでぶつかり合うとは。この先も個別学習の方が良さそうだ。

「まあ、分からないものを教えるのが俺の役目だし、全部分かってるようなら俺は必要ないからな。お前みたいに飲み込み早くて、どんどん応用もこなしてく生徒の方が稀というか。十分独学でやっていけるだろ。それか良いとこの大学生に見てもらった方が、ためにならないか」

「そんなことないですよ! 先生の教え方がいいから、宿題を難しく思わなくなったし成績も上がってワンランク上の高校を目指す気になったんですから。受検が終わった後も引き続き、お願いしたいぐらいです」

「どうせ僕は出来が悪いバカだよ。まだ小学生なのに家庭教師つけるぐらいだもん」

 ツンと拗ねる少年はふくれっ面で、兄と比べるような言い方になっていたのはまずかったと思う。こういうところが、やはり年相応に子供らしい。

「お前も頑張れば兄貴みたいになれるって。勉強、嫌いなのか?」

「好きな人なんているの?」
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