あたしが眠りにつく前に
 うっとしゃくりあげる、前方の声と零れた一滴の水。自分のことではないのに青ざめる、大人へと近づきかけたもう一つの顔。見えているのに、止められない。

「でも、世の中にはいるんだ。‘しょうがなくないこと’にできない奴が。どう足掻いたって努力したって、適わない。それでも受け入れて、できる限り立ち向かう。俺はそういう奴を知っている。だから、許せない。眠気を逃げの言い訳にする奴は」

 心の一部が警鐘を鳴らしていたのに、止まらなかった。やっとの神の救済のように、机上に置いていたストップウォッチがピピピとアラームを鳴り響かせた。

「休憩、か。じゃあ、一旦ここまでにする。学ぶ意志がないなら、出て行け。止めはしない。おばさんには上手く言っておくし、その辺は心配しなくていいからな」

 部屋を出てドアを閉めた直後に鼻をすする音がした。中から宥めるようなボソボソとした声もするが、振り切って廊下を進む。突き当りまで来たところで、壁に背を預けて座り込む。

ああ、なんてことをしでかした。正気か、一之瀬帆高。お前はこれほど馬鹿な人間だったか。帆高は思い切り自分の膝を殴った。この家にいるのは、自分とあの兄弟しかいない。見咎められる心配はない。

 爆発には至らなかったが、導火線の着火が早すぎた。いや、そもそも導火線すら登場するはずがなかった、通常なら。軽く叱責して受け流し、勉強を再開する。それくらいの芸当はできていた。

相手は子供、しかも小学生。発言自体に悪気は無いことも、単なるぼやきにすぎないことも知っていた。それなのにまともに受け取って、正義ぶって徹底的に叩きのめした。

暴挙に発展した理由は分かっているつもりだ。最近の自分の精神は不安定で、煮えたぎった窯のようにグラグラと揺れている。でなければ、バイト中にも関わらず意識を飛ばすといった不覚をとらない。そう、これは八つ当たりなのだ。

 魔眼は抑えられていただろうか。自身に問いかけて、自嘲する。さんざ存在を否定しているのに、肯定して心配するだなんて。やはり自分はかなりキているらしい。しっかりしろ。活を飛ばせど、心は思うとおりに作動してくれない。素直なものだ、できるはずがないと諦めてしまっている。原因が解消されるまでは、と。

だって、あれから彼女はずっと―――

 何となくジャージのポケットに入れていた携帯電話を取り出すと、着信を知らせる青いランプが点滅していた。開いて確認すれば、着信は5分前。相手は重要な用件以外では滅多に連絡してこない人物。

ドドドと不自然に鳴り出す心臓を押さえつけ、帆高は発信ボタンを押した。

「もしもし、帆高です。出られなくて、すみませんでした」
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