あたしが眠りにつく前に
『羨ましいよな、寝てるだけで堂々と学校休めるなんて。俺もなりてえよ。そんな便利なビョーキ』

『てか、どこも異常は無いのに寝てるだけだなんて、有り得ねえし。実はイジメとかあってさ、今頃くらーい部屋でパソコンいじって引きこもってるんじゃねーの』

 珠結が入院して3ヶ月経ったある日、そう笑ってほざく声が耳に入った途端、帆高の記憶は飛んだ。気づいたら教師に取り押さえられていて、拳が赤い液体で染まっていた。数m先では、顔を押さえた男子生徒二人が廊下にうずくまっていた。

すぐに職員室ではなく保健室に連れ込まれ、氷入りのビニール袋を頬に押さえつけられて初めて、自分も殴られていたことを知った。

 負わせた怪我が大したことが無かったのと、相手にも非があったことで、学校からは喧嘩両成敗での1時間の説教と反省文の提出をくらっただけだった。そこには帆高の素行態度や人物評価も大きく関わっていたことだろう。

そして帆高個人には相手の両親への謝罪がプラスされ、各両親が理解のある人間だったことで結果的に大事にはならずに済んだ。

「つくづく、あんたの考えには物が言えないわね。ま、怒鳴り散らして手を上げなかっただけ進歩したでしょ。あたしだったら、相手がガキだろうと本気のビンタを食らわしてただろうから。これじゃあ、どっちがオトナかしらね」

「感情的にならずにいられなくなるのは当然でしょう。だってあなたは珠結の母親で…珠結にとっても大切な家族なのですから。目の前で侮辱されてて黙っていられる訳無いですし、珠結だって同じでしょう」

「そうよ。あたしにとって珠結は世界で一番可愛い娘だし、あの子のためなら何だってするわ。あの子もあたしを愛してくれるし、これ以上幸せなことは無いわね。…羨ましい? 帆高」

「からかわないでくださいよ。せいぜい娘可愛さに人の道を踏み外すようなことは、しないでくださいね」

 彼女の茶化す表情が想像でき、帆高もお返しとばかりに打ち返す。そんな安い挑発に乗るほど、思いつめていないし余裕を失ってはいない。

「ははっ。あんたはやっぱり、その生意気さが似合うわよ。さて、そろそろタイムアップみたいだから切るわね。実のところ、業務を抜け出して電話してるのよ。すぐにかけなおしてくれて助かったわ」

「どうりで。声がこもってると思いました。トイレか倉庫とかですか?」

 想像に任せるわ。軽く笑い合って同じタイミングで笑みがひいた時、急に彼女の声のトーンが変わった。

「言っておきたいんだけど、前回のことと今回のことで、珠結やあたしの代わりに怒ってくれたのは礼を言うわ。でもね、どちらもきっと間違ってはいないけど正しいことじゃあない。共感できる理由があったとしても、結局は傷つく人間が現れる。相手だけじゃなく帆高も。あんたが傷ついたことに傷ついて責める人間もいる。それだけは、分かっててよ?」

 はい。帆高の返事を聞き遂げると、彼女は満足そうにじゃあねと囁いて今度こそ通話が切れた。やっと戻ってきた娘に会えなかった落胆は相当だろうに、彼女は最後まで気丈だった。

 珠結も彼女も戦っている。二人に比べたら取るに足らない、自分の問題はウダウダ後悔するような価値も無い。自分に完全に非があるのだから、することは一つだ。もう他者の介入によって収束するような迂闊さは繰り返さない。

 彼女は‘こうしたらいい’‘ああしなさい’の類を一言たりとも言わなかった。言う必要などないとみなされていることは嬉しくもあり、帆高を心強く奮い立たせていた。
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