あたしが眠りにつく前に
「ごめんなさいっ!!」

 腕時計で時間を見計らい、ドアを開けた途端にこれだ。どこで教わったんだと思うほどに見事な土下座。完全に出鼻をくじかれ、先を越された感が否めない。

「…あー、とにかくやめろ。席に戻れ。傍から見れば、俺はどこぞの鬼教師だって話だぞ」

 帆高は少年が低位置に戻るのを確認すると、ボックスティッシュを差し出す。少年の鼻からは鼻水が垂れかけ、目は真っ赤に腫れている。すぐ傍のゴミ箱には丸まったティッシュがいくつも詰まっていた。

チンと鼻をかんでも、やや鼻をすする音がする。部屋からはさほど離れていなかったが、泣き声は聞こえてこなかった。泣いたのは明らかだが、最低限にこらえたのは男としての意地があったのかもしれない。帆高の中で罪悪感がますます湧き上がる。

「その、俺が悪かった。すまなかった。言い方ってものがあるのに、大人気なくて…」

 いえ、と少年の兄が静かな声で遮った。

「こいつが怒られて泣くの、初めてなんです。先生が怖かったというのもありますが、先生の言ったことは正しいのを、こいつなりにも理解したみたいで。正直、俺や両親や学校の先生に大声で怒鳴られるより、よっぽど堪えたようです。ありがとうございます」

「おい、礼を言われる筋合いなんてないって」

 むしろ責められるのを覚悟していただけあって、この状況には帆高でさえも戸惑う。

「僕、勉強頑張ってみる。でも、兄ちゃんやせんせいみたいに頭良くなれないかもしれないけど、それでもいい?」

「あのな、そういうのはやってみなくちゃ分かんないんだ。少しずつでいいんだし、お前が頑張るからには、俺も力を惜しまないからな」

 大きく頷き、少年は微笑んだ。もうそこには、涙の影は見えない。グシャリと頭をかき乱してやれば、照れたようにして抵抗する。兄の方も目を細めて弟を見つめる。ああ、血は争えないだけあって良い子達だなと帆高は感慨深く感じていた。

「そうと決まれば、まずは簡単な目標でも決めとくか」

「うん! でも目標って?」

「その方が、頑張りやすいだろ。たとえば授業中に手を上げられるようになるとか、テストで何十点以上取るとか。お前、いつも平均何点ぐらいだ?」

 聞くなり、さっきまでのやる気はどこへやら、少年は暗い面持ちで目線を下げる。口ごもる彼に何とか吐かせた返答は、帆高に目指す最終地点は遙か彼方で困難な道のりを辿るだろうと実感せざるを得ないものだった。

すみませんと再び兄に恐縮され、帆高は引きつる口元を何とか吊り上げた。

「…分かった。目標は俺が決めてやる。ひとまずは今年中に全教科のテストを80点以上を叩き出す。異論は認めない」

「えええ!? そんなの無理だよ!」

「情けない声を出すな。小学生のテストなら、満点だってそんなに難しくないことだ。ここで挫けてたら、先が思いやられるぞ。中学高校の試験、ましては受検なんて今の何万倍もヒイヒイ言うことになるんだからな。大げさじゃない」

「せんせい…。いつもとキャラが違くない?」

「火をつけたのは、紛れもなくお前だ。さっきの涙と意思表示を称えて、全力でいかせてもらうからな。今までのように遠慮はしない。さあ、時間がもったいない。とっとと鉛筆を握れ!」

 クールだと捉えていた中学生が十字を切り、この家至上最大の悲鳴が壁と窓を貫いて近所中に響き渡った。
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