あたしが眠りにつく前に
「帰って来た! 母ちゃん、見て見て~!!」

 答案を握り締めて部屋を飛び出して行った小さな後姿を見送ると、帆高も帰り支度を始める。しかし視線を感じて元を辿れば。

「どうした。鳩が豆鉄砲くらってひっくり返ったような顔して。せっかくのクールフェイスが台無しだぞ」

「先生に言われたくないですよ。それに一語余計なのが混じってませんか。率直に、意外だなと思いまして。感情を別にして何でもこなしてしまうところ、羨ましいです」

「お前はどうも俺を美化してるところがあるな」

「美化どころか尊敬してますよ。頭脳だけでなく、人としても」

「おい、褒めても何も出ないぞ。その根拠は」

「前々から先生のことは耳タコなほど聞かされてきまして。実際にお会いして、それが大げさではなく本当だったんだと十分に分かりました」

 何を聞いたんだと尋ねても、彼は曖昧に微笑むだけ。こうなれば明日あたり、情報源のあいつを絞り上げなければ。今日のあいつはデートで遠出するから門限を伸ばしてもらったんだと、気持ちが悪いほどニタニタしていたな。楽しい楽しい惚気話を喋らせる前に、こっちの疑問を切り出してやる。

「そうだ先生、ちょっと聞きたいことがあるんです」

「何だ? どっか分からない所でもあったか」

「いえ、勉強のことではなく…」

 ドタドタと騒がしい音がして、ドアが勢いよく開いた。

「せんせー。母ちゃん、すっげ褒めてくれた! そんでね、ケーキ買ってきたから帰りに持って行ってだってー」

「いや、そんな気遣いなんて。却って申し訳ないって言うか…」

「これはほんの気持ちなんだって。なんかね、僕がこんなできるようになったなんて、信じられないって言ってたよ。あ、僕チーズケーキがいいから取っといてー」

 再び少年は慌しく廊下を駆けていき、ポカンとした帆高と口を押さえて笑いをこらえる教え子が残された。

「遠慮なく受け取ってください。母さん、あんまり俺の成績が上昇したもんだから、先生への給料が安すぎるんじゃないかって気に病んでるぐらいなんです。僕が言っては何ですが、もっと要求してもおかしくないですよ。それにあいつの出来栄えを見て、弟にも正式に頼むことになると思いますから尚のこと」

「俺はもらいすぎだと思ってるぐらいなんだがな。それより、質問って?」

「いえ、また今度で良いです。今日もありがとうございました。俺、先行ってますね。あいつのことだから、チーズケーキと言っといてあれやこれやと迷ってるでしょうから」

「そんな気がするな。じゃ、支度したらすぐ行く」

 一人きりになり、上着を羽織って立ち上がる。窓の外は赤と黒が入り混ざり、うっすらと星も出ていた。昼間と変わらず、雲一つ無い。

今日は綺麗な晴天だった。少しでも、あの青を見られただろうか。見つめる遙か先で眠りに付く少女が脳裏を過ぎる。

誰もいない、何も無い世界に囚われた彼女に引き換え自分は、のほほんと日常を漂って。何もできずに、想うだけの自分が不甲斐なくて。

 俺だって、次こそは。何があっても駆けつける。何のために? そんなの、決まっているだろう。
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