あたしが眠りにつく前に
「…や、どうしたの帆高!? どっか、おかしくなっちゃった?」

 「かもな」しれっとした帆高に、珠結の目は点になる。

「知ってるか。月は日本では愛でられる存在だけど、外国では違う。ローマ神話の月の女神は‘luna’。その名前から派生したのが、‘lunacy’。意味は…‘狂気’。月光は人を狂わせるって言うんだってさ」

「…ここ、日本だよ? あたし達だって、日本人」

 真上には満月。隠れていた分を取り返すかのように、二人を照らしつける。朧げな光が狂気をはらむ禍々しいものだとは信じがたい。

珠結の染めているのでもない、生まれつきのダークブラウンの髪は光を反射する。明るくクリアに浮き上がる髪色は、伝統的な日本人のものとはかけ離れる。それでも体を構成する遺伝子も、月を見上げて美しいと思う感性も純日本人のものだ。

「細かいことは気にするな」

 細かくはないだろう。立場が交代し、帆高のものだと思えない言葉。まさか本当に狂ってしまったのだろうか。下から覗き込んでくる瞳の奥で、狂気がひっそりと身を潜めているのか。

「いつだって馬鹿の一つ覚えみたいに、ヘラヘラ笑ってて。息ができないくらいに悲しいことや、消えたいと願うほど苦しいことがあったって、まともに泣いたことなんか無いだろ。入院したらストレスぶつけるって言っときながら、微塵も無かった。いいか、いらない感情なんて無い。‘良くない感情’を持つことは、間違いだって思うな」

 全てをさらけ出していた、帆高には。でもそれは、永峰珠結という人物評価に関わらない内容を除いてだ。人知れず抱えた、汚くて許されざる感情。君に知られたくなどなかった。

「珠結がそれでいいと思うんなら、って何も言わないできた。でもな、どこまで行っても口に出さない、素振りも見せない。思って当然のことを思っていない…ような気にさせて。怖いんだよ、珠結の心が閉じちまうんじゃないかって」

「やめてよ。あたしは、たくさんの人に支えてもらってる。だから恵まれていて、幸せなんだよ。でもあたし一人のために、その人達は苦しんで迷惑をかけられてる。幸せを、妨げてる。そんなあたしが、不満も怒りも感じる権利なんて無い。そんなの、許されない!」

「そう言い聞かせて生きてきて、珠結の方が聖人君子ぶってるだろ。闇を持たない人間なんていない。キレイなだけの心を持った人間なんて、嘘臭いし気味が悪い。人間だとは思えない。珠結は必要も無いのに、我慢して押さえ込み続けた。たいがいに、発散してもいいだろ。理不尽な八つ当たりも、身の上を呪うのも、天に唾を吐くのも」

「…っ。神様に願掛けした人間の、言うことじゃないでしょ」

 最後の一線を必死に踏みとどまる。まともな反論を搾り出せない時点で、後が無い。

「…どうしても、許せないのなら。なすりつけちまえよ。許されざることをしてしまうのは、月にあてられたせいだって。狂者の言うことなんて、誰もまともに取り合わない。狂った俺に唆されたせいにしてもいい。どっちだって、許される」

 ‘許される’その一言は、珠結の中の防波堤を決壊させるには十分すぎた。

「……何で、あたし、なの。なんでえぇぇ……っ!!!」
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