あたしが眠りにつく前に
 前触れも無く、体が下向した。その感覚はエレベーターと似ていた。下ろされると思いきや、帆高との目線が水平に交わる位置で停止する。

帆高は瞳を閉じ、珠結に頭を寄せつけた。珠結も頭を傾けて、寄せ合う形で目を閉じる。

「待ってる」

 その一言に、どれだけの想いが含まれているかなど計り知れない。熱っぽい響きが珠結の耳から脳へと痺れさせ、腰が砕けそうになってしまう。

闇は全ての感覚を敏感にさせる。額から伝わる平熱以上の熱も、小刻みな吐息も全身を満たしていく。

 遮断した視界の中で、珠結は月の姿を思い返した。どうせなら狂気の理由に引っ張り出すのではなく、今は亡き文豪のような情緒ある言い回しにて出演依頼したかった。

そのエピソードを教えてくれたのも、その文豪の長編を手にした帆高だったと思う。帆高にとって月は、両面性を携えた存在に映っていたのだろう。

 『月が綺麗ですね』帆高が急に言い出した時は、意味を知らなかったために、ハテナを浮かべていた。クイズ感覚だったから、意味を聞いても「そうなんだ」と思うだけだった。

もしも予め知っていたのなら、どうしていただろうか。からかっているのだろうと、笑い飛ばしていただろうか。とんちの聞いた反応をひねり出せていたのだろうか。…それとも、乙女らしく胸をときめかせただろうか。

 今一度、帆高の口から紡ぎ出されたら。かつて帆高に告白してきた少女達のように濡れた瞳で熱くこもった声で囁かれたら、逆らえなかったかもしれない。本当の気持ちを叫びたい欲求が弾けてしまっただろう。帆高の瞳に囚われた人間としての欲目だ。

しかしもう、有り得ない。機会は既に直前になって、この手で容赦なく折り砕いてしまった。一生、親友。剥がれないレッテルを貼り付けた。君の瞳を見なくて、本当に良かった。

 良かった、のに。心のどこかで後悔が渦巻いているなんて勝手すぎる。その悲嘆分子を慰めるように、想像できない未来が訪れたその時は、そう甘ったるい仮定を期待するなんて気狂いが後を引いているのか。

 月は忠犬のごとく隠れもせず、その場に留まり続ける。何を言っても、思っても許される。今夜だけの、お情け。罪を無罪に変えてしまう、淡い光と深く沈んだ漆黒の中。どうかまだ、このままで。

 時計の針は絶えず針を回し、正しい時刻を忠実に指し示す。一刻一刻と、夜は更けていく。それでも狂った二人は、有限な気狂いの時間に幕を下ろす気にはなれなかった。
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