あたしが眠りにつく前に
「電話してたの?」

 珠結の母、幸世の手には、赤地に白の水玉のマグカップ。湯気と香りからして、おそらくホットミルク。

「うん、帆高と。あたしが起きたとは思ってなかったみたいで、驚いてた」

 珠結はマグカップを受け取り、息を吹きかける。そっと口に含むと、そんなに熱くはなかった。猫舌である娘に配慮したらしい。甘すぎない適度な甘みで、半分以上が胃の中へと落ちていく。

「そう。良かったわね、帆高も」

「だと、いいけどね。そう思ってくれてたらいいけど」

「分かってるくせに。部屋、寒くない? 温度、上げる?」

「ううん、丁度いい。朝から、冷えるよね」

「それでも昼頃には12℃いくみたいよ。…あら? 懐かしいわね」

 珠結が開いていた本に目を落として、幸世は目を細めた。

「でしょ? 本棚の奥から見つけたの」

「捨てないで、まだ残ってたのね。そりゃそうか、これ、あんたのお気に入りだったし。ここで帆高とよく頭をつき合わせて、何度も読んでたわね」

 紙質と色合いは劣化していたものの、染みは一つも無い。大事にしていただけあって、破れや落書きといった破損も見られない。

奥付を見れば、発行は12年前。夢中になっていた頃の珠結達は、‘物は大事に使いましょう’意識が希薄な幼児時代。年月と置かれた状況からして、よくぞ綺麗な姿で保っていたと思う。

「タクシーはあと20分ぐらいで来るけど、何か食べといた方がいいんじゃない? 牛乳だけじゃ、たかが知れてるし、胃の中が空っぽだと酔うわよ。少しでも入る?」

「うん、少しぐらいなら。ねえ、あたし、オムレツ食べたいな。ダメ?」

「相変わらず、好きよね。分かったわ、今作ってくるから。身支度、調えときなさいよ。髪、ボサボサ。あたしがやったって、いいけど」

 軽く手櫛で梳いたのだが、確かにところどころで引っかかる。全身鏡を見れば、跳ねた部分がチラホラ。

「これくらい、自分でやれるよ。あ、ミルクのお代わりも…」

 ドアの向こうへと消えかけていた母に向けて、珠結はマグカップを掲げる。珠結には5mの距離が、とても遠い。椅子にキャスターが付いていればと思うも、畳部屋ではそうもいかない。

「こんなことで、そんな顔するんじゃないわよ。ホント、あんたはバカ」

 甘えてくれた方が嬉しいんだから。笑いながら珠結の頭を撫でて、幸世は部屋を後にした。このくらいなら、遠慮なんて無用だった。親子だからとはいえ、どうしてもワガママを言うのに気が引けてしまう。やはり珠結には、その辺の区分が難しいと思えてしまった。

 珠結の細く長い髪は絡みやすく、ブラシで念入りに解いていく。かなり伸びたものだなあ。元から長いのが通常だったが、鏡の中の珠結の髪はゆうに腰に届いて座面にも到達して渦巻いている。

定期的に切ってもらっているが、量を梳くだけだ。長くなればなるほど洗髪は大変になるが、短くする気にはなれなかった。

幼い頃は友人達のような漆黒の髪に憧れたこともあったが、今では思い入れを持っている。だからこそ、切るのを惜しんでしまう。髪は女の命。それに都合よく便乗させてもらっている。
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