あたしが眠りにつく前に
 ふふんと笑いかけた鬼頭に、帆高は対照的にムッツリ顔を作る。

「…珠結、支度できてるか」

「うん。そろそろ、行こっか」

「あ、待て。風が少し冷たいから、プランケットを持って行ったほうがいい。あと、帽子も。意外と日差しが強かったからな」

 帽子も持ってきてくれていたのだった。母も帆高も抜け目がない。赤白黒のチェックのプランケットを膝にかけ、白いレースのリボンが付いたベージュのボーラー帽を両手に持つ。

私物のコーディネートを見るからに、つくづく可愛い系が好きだよなと思う。

「あなた一人で大丈夫? 珠結ちゃん、慣れてないんだけど」

 珠結を帆高の方へと押し出すと、鬼頭は握っていたグリップを離した。

「中学で介助訓練を受けたことありますから。仕組みも機能も頭に入ってます」

 車椅子に座る珠結に見守られて、帆高はハンドルのグリップを強く握り締めた。

 足が使えない珠結が車椅子に乗るのは、今日で二度目だ。思うよりも操作は難しく、真っ直ぐ進むのも一苦労だった。しかも20分しか練習できず、帆高の手押しに頼らざるを得ないと分かっていた。

出かける前にレクチャーがあるものと思っていたのだが、その必要も無いとは。帆高にできないこととは何だろう。何十年かかっても、見つけられないかもしれない。

「じゃあ、行って来ます」

「ごゆっくり、楽しんできて頂戴。お姫様をよろしくね、王子様」

「その言い方はやめてくださいと何度も…。はぁ、それでは」

「え? あたしの知らない所で何度も言われてたの!? そんなんじゃ…」

 にこやかに手を振る鬼頭を後にして、帆高は病室を出てズンズンと廊下を進んでいく。エレベーターの前に着くと、ようやく口を開いた。

「言っても右耳から入って、脳にかすりもしないで左耳へと通り抜けてる。諦めが肝心だぞ。あの人に敵う人間なんて、日本に一人二人いるかだな」

「悟ったね、帆高。あたしが聞くのは2度目かな。大変だったでしょ、聞き流すの」

「珠結は嫌か? ああいう風に言われて」

 …それは、どういう意味でしょうか。分かりかねて、頭がショートする。

「帆高は、そうなんでしょ。さっき嫌そうな顔してたし」

「珠結の目には、そう見えただけだろ。俺は言うのをやめてほしいと言っただけで、たとえ自体が嫌だとは言ってない」

 二の句が告げないまま、下行きのエレベーターが来た。会話は自然とそこで終了した。乗り込んだ二人きりの密室に自分の鼓動が響いていないかと、いっそう脈拍が上がってしまう。

 帆高の気持ちに目を塞いだ。自分の気持ちも、深奥へと封じ込めた。それなのに気まぐれに思い出して、戸惑いをもてあまして。無様で滑稽でしょうに。

 エレベーターを降り、ホールも総合受付も抜けて自動ドアが開く。肺に流れ込むのは体に染み込んだ消毒のにおいではなく、外界のにおい。

珠結は大きく息を吸って、透明な無のにおいを取り込んだ。
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